2006年12月31日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―4

 ご存知のように山本周五郎・作品はいくつもの映画や芝居になった。だがオペラにはまだなってない。悪妻にこてんぱんにやられる日雇い人足の松、そして男前の女衒(ひも)に巻きあげられる場末の遊女お秋。底辺に生きる男女の悲哀。共に江戸を舞台にした真冬と真夏の物語り。かねてからモノオペラにして演じたいと思っていた題材である。僕はまず「松」を数名の識者に拙宅のスタジオで聴いてもらう試演会を設定した。目標日程を設定してしまい、自分を縛り、何が何でもそれまでに仕上げる。それが大の怠け者を自覚する僕のやりかたである。「マダマ バタフライ」も上演劇場を年末に押さえてある。秋に始める練習までには何としても原作の日本誤認訂正を終え、世界初の改訂版の楽譜を作成し終えねばならない。僕はローマの音楽院を出たから少しはイタリア語が解る。日本人歌手が日本を舞台にしたオペラの日本についての歌詞の間違いを直すのは当然の義務である。

 僕は、日本語訳の字幕を出してのオペラ上演が好きではない。ウイーン国立歌劇場のように前の座席の後部上方、座る位置から見て舞台を見る目線とあまり違わない所、或いは手の掌に入る、携帯電話のような小さな機械に訳が出るのならまだいい。しかし、僕が芸術総監督を務めるNPOみんなのオペラの上演は江東区のテイアラこうとう(1102席)をフランチャイズとしておこなう。そんな設備はない。舞台の左右か上方に出る訳を見ると首が痛くなり、舞台からは眼がそれてしまう。そしてその訳には不備なものもあり、複数の歌手が同時に歌うと誰が何を歌っているのか皆目わからなくなる。経費もかかる。――実は日本にはおく(’’)なま(’’)という微笑みの効用を説く賢人がいるという、蝶々さんの侍女すあずきが第一幕で歌う原作の誤りは、邦人の字幕作者が意訳をして、おく(’’)なま(’’)を字幕から外してしまうから日本人客は原作の誤りを知らされずにきているのである。

 オペラが難解だと言われる理由は言葉が解らないからである。日本語を解らない役の米国士官ピンカートンが原語のイタリア語で歌うときにはその場に居る日本語を喋れる役の歌手に、音楽を邪魔せずに、原作にはない脚色をした日本語を喋らせてお客に何が原語で歌われたか、これから歌われるかを解るように工夫をして訳語を作るのである。――大晦日になってこの連載はいつまで続くか解らなくなった。とにかく続けよう!よい新年をお祈りしつつ!
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2006年12月24日

国際改訂版「蝶々さん」顛末記ー3

オペラ「マダマ バタフライ」原作の日本誤認は100年以上も前のことだから致し方ない。手を尽くしても日本の姿は解らなかったのだ。しかし、初演以来100年以上も上演し続けられ来たこのオペラの日本国外での演出は、我々日本人にとり眼を覆うばかりの国辱的なものが殆どだ。―――意味も無く日本人は笑い、外人(アメリカ人)にへつらい、中国とも韓国ともベトナムとも解らない奇妙な衣裳を着け、家の中にづかづかと土足で入り込み、蝶々さんは内股を見せて大股に闊歩し、長崎港の彼方に富士山が浮かびーーー等など。外人演出家たちは、有色人種の世界のことだと、怠慢にも日本の本当の姿を追及しようとしなかったとしか思えないひどさだ。バス歌手としての僕は専属契約を結んでいる以上、否応無しにその劇場で上演されている「マダマ バタフライ」の演出を受け入れて歌わねばならなかった。抗議しても誰もとりあってはくれなかった!

バス歌手である僕の役は蝶々さんの叔父で僧侶のぼんぞー。ちょんまげに酒屋の丁稚が履くようなスカートをつけ、南無妙法蓮華経と逆立ちするとまともに読める、逆さに字が彫られた鳥居(’’)を持ち、我が姪の蝶々さんが無断で異教のキリスト教に改宗したことを「蝶々さーん」とさん付けでなじり寄り、「かみさるんだしこ」と何のことか解らない言葉で面罵しーー。僕は日本人としての誇りを捨てて歌わざるを得なかった。

 小さな静かなリゾートホテル。僕の世界初の原作の日本誤認改定ははかどった。疲れると玄界灘にかもめが飛び交う様に眼を癒し、又、楽譜に眼を戻した。適当な訳語がでてこないと周五郎の「嘘アつかねえ」を「松」という題名のモノオペラにする脚色にペンを持ち替え、気分を転換した。「蝶々さん」も「松」も急がねばならないーー続く
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2006年12月17日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記ー2

2002年暮れから‘03年正月にかけて、僕は九州、玄界灘を目の前に望むホテルに居た。オペラ「マダマ バタフライ」のNPOみんなのオペラでの’03年上演を控え、世界初に原作の日本誤認を訂正し、原語イタリア語と日本語の混合の台本を完成さすべく、イタリア語の辞書とこのオペラのヴォーカルスコアー、そして山本周五郎の新潮文庫「日々平安」以外には何も持たない。小高い丘の上の小さなリゾートホテル。眼下には荒波の砂浜が延々と広がり、周りに人家はまばら。宿泊客は我々夫婦だけ。ここなら誰にも邪魔をされない。遊びに行くところも全くない。周五郎の短編「嘘アつかねえ」と「ほたる放生」は新モノオペラ「人情歌物語 松とお秋」として‘06年に日の目を見ることになるのだが、底辺に生きる男女の哀愁を2つのモノオペラ台本にせねばならない。拙宅での試演会が待っている。作曲の大中恩・先生にすぐに渡さねばならない。

オペラ・バタフライは1904年にミラノのスカラ座で初演された。初演は大失敗だったが、改定版を創った作曲者のプッチーニは、僅か3ヵ月後にミラノからさほど遠くないブレーシャで再演し今度は大成功を収めた。以後100年あまり、極東の神秘の我が国を世界に紹介すること万人の外交官に勝り、世界中で上演され続けてきた。

しかしその原作には、日本の地名・大村がオマーラ(’’’’)になっていたり、オクナマ(’’’’)という微笑みの効用を説く賢人が居たり、キリスト教国と同じく結婚式が終わると親戚一堂が「おーかーみ、おーかーみ」と一神教的に神の名を讃えたり、仏壇に向かい「イザギ(’’’)、イザナミ、サルンダシコ(’’’’)、カーミ」と神道らしき祈りを奉げたり、芸者は、雨の日も風の日も道傍で踊り歌ってぜにを道行く人に請うたりーーなどなどの日本誤認がある。無理もない。ペリーの来航から半世紀ほど。開国したばかりの極東の神秘の島国のことを西欧では手探りで見当をつけていた頃に創られたオペラである。プッチーニと二人の台本作者は種々手を尽くしたが日本人の眼から見ると甚だ奇妙な間違いがある。だが、過去何人もの日本人アーテイストが世界中でこのオペラを歌い、あるいは演出し、あるいは舞台を飾り、と上演にたずさわってきたが、彼ら日本人でさえ、その誤認を誰一人として訂正しようとしてはこなかった。そしてモノオペラという軽量で廉価、オペラ大衆化に最も相応しいジャンルは、日本のオペラ界は
これを敬遠し、殆ど手を付けてはこなかったのだ。――続く。
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2006年12月10日

国際改訂版「蝶々さん」顛末記ー1

‘06年12月6日。晴天の霹靂のメールがイタリアのフランコ・モレッテイ氏から飛び込んできた。彼はプッチーニ・フェステイバル財団監督である。「当財団理事会が別な決断を下し、2008年のバタフライ上演で新プロダクションは採用しないことになった。資金源も発見できない。誠に残念だが計画してきた上演は諦めて欲しい。そちらの今後のスケジュールはこのことを踏まえてご自由にお立ていただきたく、今の段階でお知らせする。私も誠に無念である!来年5月に東京のイタリア文化会館と共同でプッチーニ・マラソンをやるために日本に行くので、そのときにお目にかかりたい」。

2年以上も前から彼と進めてきた、長崎を舞台としたプッチーニ作曲のオペラ「マダマ バタフライ」の本場上演。その原作の日本誤認を僕が世界初に訂正した国際改定版。イタリア、トーレ・デル・ラーゴでの、第54回プッチーニ・フェステイバル、プッチーニ生端150周年記念年の2008年に建つ新湖畔劇場(3200席)杮落とし公演。それを僕の演出で「NPOみんなのオペラ」を招聘する公演として飾る、絶好の我が国・国威発揚の機会は夢となって消え去った!

その顛末を以後の回から書こうと思う。
posted by opera-okamura at 14:39| Comment(0) | 日記

2006年12月03日

分業社会は無能社会

「一寸待って、これを試すまで!」すぐに踵を返し、忙しそうに去ろうとする配達人に言葉を掛けて、僕は彼が配達してきた新しいバッテリーをノート型パソコンに挿入した。

 ソニーが製作したバッテリーに不具合があるからとパソコン会社から連絡があり、交換しに配達人は来たのである。一度あることは二度あると疑え。僕は彼が配達した新バッテリーを古いのと交換し、新しいのを入れて電源が入るかを試し、大丈夫なのを見てから彼に言った。「大丈夫です。この古いのを持っていってください」――「ああ、そういうことなんですか! いや初めてわかりました!!」。彼は頭をかきかき、古いバッテリーを持って帰っていった。

 自分が何を配達したのかを、そして、古いのと交換して行かねばならないことを全く知らずに、配達人はロボットのように、ただ渡すべきものを渡し、渡した証拠のサインを貰って帰って行くところだった。何も説明されてないのだから、もちろん彼には欠陥商品の交換をしているというひけ目などはこれっぽっちもない。==分業社会!それは自分がやることしか知らない無知無能の社会に通じる。
posted by opera-okamura at 13:15| Comment(0) | 日記