2007年01月27日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―8

「だんな、いきててくれて、おらー、ありがてえー、いきてさえいりゃ、こうやって、またあえるってことよー、こんなありがてえこたあねやー、―――じいさん、いつもの、もういっぱい!――――」――そまつな屋台。当時“いつもの”と呼ばれた水で割った安酒を粗末な屋台の主の爺さんに注文する日雇い人足の松は、夜、だんなと彼が呼ぶ初老の信吉ただ一人を相手に飲む。それが彼の生き甲斐である。「――――なあ、だんな、おいらはーなあー、−−このあま、おきろ、おきて、かまのしたをたきつけろ!――おいらいつも、このしきだ! おんなはこれでなくちゃいけねえ、うそアつかねえ、いちどなんか、どまえけおとしてくれたがーー」怪気炎の歌は続く。そして科白になる。「時は東京がまだ江戸と呼ばれていた頃のこと。浅草は浅草寺の近くでの話しである。ーー」―――。

 僅か8人の有識者たちに向かい僕らは一生懸命、初めて周五郎の短編が脚色され曲が付けられた、浪花節風の新モノオペラ「人情歌物語 松」を初演した。楽譜を見ての演奏だから演技はつかない。だから正確にはまだオペラとは言えない。僕は歌って喋ってと、浪花節の大夫よろしく1時間あまりをびっしょりと汗をかいて演奏し終えた。ピアニストとクラリネット奏者も始めての試みを健闘し、終えるとほっとため息をついた。

 僕は切り出した。「何でもいいです。どうかご忌憚のないご意見をください」――「よくやってくれました、有難う」ごそごそと音を立てて楽譜をめくり、自分の曲の演奏を最初から最後まで一生懸命追っていた大中先生。「こういう誰もまだ試みたことのない作品を演奏する機会を戴いて感謝してます」本番を奏するクラリネットの磯部さん。だがこの二人以外からは厳しい批評だけが連発された。「くどいなー、同じような科白が続いて。もっと整理をしなきゃーー」「人物の演じ分けがまだまだこなれていないなー!」「話しの最後の落としが予測されてしまってはねーー」「――周五郎の良さをもっと出してーー」などなどーー。

 散々にけなされて試演会は終わった。だがその目的は達成されたえわけである。一緒に仕事をしている彼らの、歯に衣を着せない意見を入れて僕は、原作を殆どそのままオペラ脚本にした愚を大幅に整理する決意を固め、楽譜を見てやっと演奏した勉強の浅さを大いに反省した。周五郎先生は読者の為に書いたのであって聞かせるため、ましてはオペラの為にではない。そして書き終えた「マダマ バタフライ」の台本も見直す必要を自覚した。――続く。
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2007年01月20日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―7

大中恩・作曲の「松」。周五郎の原作「嘘アつかねえ」を僕が数ヶ月、東京の家で仕事の合間をみて、そして「マダマ バタフライ」の改定台本と一緒に正月休みに玄界灘の小さなホテルで書いた、およそ半分くらいの台本についた曲。見事に言葉にそって曲がちりばめられてあった。「できた、できた!」と先生は嬉しそうに手書きの楽譜が入った紙袋を抱えて、宝物を持った子供のようにご自分で拙宅に持参された。僕は早速速達で、クラリネットの女性奏者とピアノの安田裕子さんに送付した。何時出来上がるのか、と二人共に首を長くしてまっていた。クラリネットの正奏者はN響首席クラリネット奏者の磯部周平さんであるが、多忙のため練習時間が無い。試演会では奏することが出来ず、聴いて批評する側にまわってもらった。

 拙宅の小さなスタジオ。試演会に集まったのは:オペラ「マダマ バタフライ」の主人公、蝶々さんのモデルの件で丁度来宅されたNHKのクラッシック音楽のOプロデユーサー。蝶々さんのモデルとされた日本女性については種々の論議がある。O氏は僕が改訂版「蝶々さん」を上演するということを知り取材に来られた。そこで強引にその夜の試演会に誘ったのだった。商売柄彼は周五郎作品の最初のオペラ化に興味をもったらしい。そして僕のCDを創ってきたクラウンレコードのKデイレクター。NPOみんなのオペラのKプロデユーサー。彼は僕のテレビ・ドキュメントを幾つか創った人である。それに三井住友海上文化財団のS事務局長。僕はこの財団発足以来の派遣アーテイスト。東京から地方小都市にこの財団はアーテイストの出演料、交通費などを全額負担して派遣する。地方の公共会館では1〜2千円位の低料金でコンサートを聴けるのである。それに僕の長年のマネージャーO、クラリネットの磯部周平氏。そして大中恩先生とその連れのピアニスト。

 楽譜を見ながら僕は、ピアニストの安田君、そして若い女性クラリネット奏者I君に合図をして「松」の演奏を始めた。――続く。
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2007年01月13日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―6

 玄界灘で書いた「松」の台本を僕は東京に帰りすぐに大中先生に送付した。全体のほぼ半分くらいだった。本来は全部書き終えて推敲をしてから作曲者に渡すべきなのである。せっかちな僕は先生の作曲のための時間を考えて速達で送った。早く書いてもらわないと夏の試演会に間に合わない。まだ誰も手を付けたことがない試み。試演会で識者の意見がどうしても欲しい。それを聞いてから「松」に手を加え、その次に「お秋」の脚色を仕上げて、大中先生に渡し、翌年末の日本点字図書館チャリテイコンサートに「松」と「お秋」の2つのモノオペラを出さねばならない。僕はこのチャリテイコンサートの音楽監督。眼の不自由な方々のために相応しい出し物だと自負していた。

 「マダマ バタフライ」の台本。この公演は翌‘03年夏、そしてその為のオーデイションをその年の3月にやることになっている。従って印刷してヴォーカルスコアーとして仕上げるのはその半年前。まだ時間はある。世界初の改訂版。僕は「人情歌物語 松とお秋」とは反対に充分に見直した。何度も歌わされた、祖国日本を舞台にしているとは全く思えない変てこな向こうでの演出のこと、それを契約上歌わざるを得なかったことを苦々しく想い出しながら筆を進めた。

 周五郎の原作は読み物として書かれたものである。それを舞台、それもオペラにするには相当の経験と筆力が必要である。まだ日の目を見ていないのだが、「開眼」という、眼が見えなくなった鉄砲打ちの名人の話をオペラ台本にし、これが僕の最初のオペラ台本経験。「人情歌物語 松とお秋」は2作目になる。――そして、数ヵ月後、すらすらと台本となってしまった「松」の楽譜が大中先生からあがって来た。――--続く。
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2007年01月06日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―5

お正月の宿泊客は我々夫婦だけの小さなリゾートホテル。==ここで訂正をさせていただく。この顛末記の初めから書いている玄界灘に面するこのリゾートホテルに行ったのは‘03年の正月ではなく、その一年前の’01年末から‘02年正月にかけてのことだった。古い手帳を開いて気がついた。==電話も手紙も来ない。遊びに行くところもないから「マダマ バタフライ」と「松」の台本ははかどった。殆ど毎日が曇り日続きの玄界灘の上を雄雄しく飛ぶかもめたちは僕が手を休めて向ける眼に、早く書け、と催促しているようだった。

 「契約をいつでも破れる家だからといって、そこに付け込んじゃいけねーよ!(笑う)大いに儲けさせてもらったけどーー」――米国海軍士官ピンカートンと15歳の芸者・蝶々さんの間を取り持った国際結婚の仲人ゴローが吐く捨て台詞。彼は二人の新婚の家を作ることをピンカートンから請け負って儲けたのだ。この科白は僕の脚色で、オペラの最初の方で、長崎のアメリカ領事シャープレスにピンカートンが新築の和洋折衷の家を見せながら話す原語でのやりとりを、そこに居るゴローの口を借りてお客様に説明するために挿入した。鎖国の日本で珍しく外国に開かれてきた港町・長崎。そこでの「マダマ バタフライ」の物語りは、このオペラが創られた明治後期には原語と日本語でこんな具合に運ばれただろう。==本来は英語だが、プッチーニは、オペラ宗主国のイタリア人として当然イタリア語で書いた==。原作の日本誤認を改めるのがこの改定の目的であり、当時の長崎の姿を出来るだけ正しく舞台に復元し、今にまで続く日米文化・文明摩擦を基に、いじらしい年はかもいかない日本女性・蝶々さんの悲劇をあぶりだすのが僕の演出の目的である。

 「このアマ、起きろ、起きて釜の下を炊きつけろ!――おいらいつもこの式だ。女はこれでなくちゃいけねえ!」――浅草寺近くの汚らしい横丁の安屋台。日雇い人足の松は、飲み仲間の信吉に向かいしきりに怪気炎をあげる。庶民の哀愁を描き右に出るものはない山本周五郎の原作・「嘘アつかねえ」をモノオペラにする脚本は「マダマ バタフライ」にくらべ更にすいすいとはかどった。僕は殆ど原作そのままに筆を進めた。その後、手ひどいしっぺ返しを食うことも知らずに。――続く。
posted by opera-okamura at 21:24| Comment(0) | 日記