2007年03月29日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―17

翌2004年のNPOみんなのオペラ本公演は、10月28日(木)より31日(日)まで、前年と同じテイアラこうとうで、同じく公開総練習2回と本公演2回、新しくオーデイションによって選んだダブルキャストでの、改定版「蝶々さん」,昨年の世界初演の再演だった。オーデイションを受けずに前年に続いて同役で出演したアーテイストも居た。新応募者より優秀な歌手の場合にはそうなる。それが我々のオーデイションの規定である。同じ値段の入場券で、公開総練習3000円、本公演4000〜9000円。他のメジャーオペラ団の半分程の値段。二年続けて人気のある「徹子の部屋」には出れない。出たくてしょうがない人が門前に列をなしている番組だ。そして入りはがらがらの大赤字だった。オペラ興行ほど危ないものはない!

そこに又もイタリア文化会館のカンパナーロさんはやってきた。前年に観たプッチーニの原作の世界初の改定は一体どういう改定だったのかが気になっていたのだと思う。

もう一つには、すずきの殉死をもう一度, 別組で観たかったのではなかろうか。僕の演出では最後に自決する蝶々さんの後を追い、忠実な侍女のすずきも殉死をする。主人の蝶々さんが自決し、蝶々さんと共に3年間ほども丘の上の一軒家で日本人社会と隔絶されてわが子のように育ててきた、蝶々さんとピンカートンとの間に生まれた坊やまでアメリカに引き取られてしまい、すすきにはもはや生き甲斐はなくなったからである。その場面を彼は気に入ってくれていて、それをもう一度観たいという想いがあったようだ。

この演出は、その昔一緒にヴェローナのアレーナで「ドンカルロ」を歌ったソプラノのヴィルマ・ヴェルノッキも東京で観て、大いに気に入ったと僕に言ってくれた。彼女はボローニャ音楽院教授で、年に何回か教えに来るらしい。芸者役のk君の恩師で彼女かから聞いて聴きにに着たのである。あれはドミンゴのヨーロッパデビュー公演の1969年夏。彼女はエリザベータ妃の小姓レルマ役。僕はドミンゴのやる王子ドンカルロの父カルロ5世役だった。

もう一つ書き添えさせていただくと、この「蝶々さん」演出には開幕前に、蝶々さんがただ一人、いつも影のように寄りそう忠実なすずきをも連れずに密かにキリスト教に改宗する場面を僕は入れた。それを偶然、叔父の僧侶・ぼんぞーが垣間見てしまう。その方が、後にぼんぞーが怒り狂って結婚式の直後に祝杯を挙げる親戚縁者一同の中に割って入ってきて、姪の蝶々のキリスト教への改宗をなじり、一同と共に彼女と縁を切って、皆を連れて出て行くさまが、よく説明がつくのである。当時、キリスト教への改宗は社会的タブーだった。

==このライブ収録B組公演のDVDが最近出来上がり、領布中。ホームペーの表紙をご欄下さい。A組での経験を経て照明、撮影などがずーっと良い出来です==

 カンパナーロさんに、プッチーニの音楽には全く手を触れてないこと、地名や人名の間違い、神仏混同や習慣の誤認などの日本誤認を丁寧に説明した。そして、細かに原作の間違いを指摘した公演プログラムを見てくれと手渡した。彼はしっかりとうなずいた。彼の日本の前任地はオーストラリアで、日本の後はウイーンに転任して行った。イタリア語の他に流暢に英語とドイツ語を話すが、日本語はダメである。だから彼は日本語を解する人にそのプログラムを訳してもらい読んで参考にしたに違いない。そうでないと、その後のこの改定に対する好意的な、イタリアの文化担当官として実に適切な行動の説明がつかない。――続く
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2007年03月23日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―16

世界初演の改訂版「蝶々さん」は大成功だった。「徹子の部屋」のお陰で客入りも良かったが、内容も僕が期待したとおりに日米文化摩擦から起こった、うぶな一日本女性の悲劇を表現できた。出演者は全力を尽くした。しかし、招待券を要求してきた批評家が書いた音楽業界誌の非常にくだらない内容のものたった一つを除き批評はなく、話題には全くならなかった。影響力ある紙面を持つ批評家は誰も来なかった。だが、この公演から世界に通じる道が開けようとは神ならぬ身には全く予見出来なかった。

 本公演の日は公演開始頃から降りだした大雨だった。「すみませんが、タクシーを何とかして戴けないでしょうか!」公演が終わり、客席で裏方たちへのダメ押しを出し終わったとき、扉の方からイタリア語が聞こえた。ダメ押しとは、その日の公演後に、改善して欲しいことを指揮者や演出家が出演者や照明、音響、舞台監督たち裏方に伝えることを言う。その声の主はイタリア文化会館副館長の文化担当官、G・カンパナーロさんだった。会場、テイアラこうとうの前の大通りに出てタクシーを捕まえるまでに、俄かの大雨で傘の用意の無い彼と同行のイタリア人女性たちはずぶぬれになってしまう。僕は契約しているタクシー会社の車を携帯電話で一台呼んだ。

「ところで、リバイズド・エデイション、と書いてあるけど、何をリヴァイスドしたのですか?」タクシーが到着するまでの間に彼は尋ねてきた。「プッチーニと二人の台本作家による原作の、日本誤認をです。何しろ百年前の初演ですから、幾ら手を尽くしても日本のことを正確に知るのは、彼らにとって不可能だったのです」

明治後期の物語を再現するために、日本人や日本語の解る役の長崎在住米国領事・シャープレスは部分的に日本語で歌ったから、カンパナーロさんには改定が理解できないのは無理も無い。この上演はあくまで日本での日本人向けの公演である。

「プッチーニの音楽には勿論全く手をつけてはいません。日米の文化摩擦から起こった悲劇を演出しましたが、この作品のポイントは何て言ってもプッチーニの素晴らしい音楽ですからね!」。怪訝な顔をしながらカンパナーロさんはタクシーに乗り込んだ。「来年に又ここで再演しますから是非来てください」僕は念を押した。


この原作の日本誤認改定版上演に踏み切る前、僕はイタリアのプッチーニ家や版権を持つリコルデイ社から原作の無断改定を指摘されるのが怖かった。しかし、弁護士と相談したら、原作の著作権は全部切れているし、悪意からの改定ではなく、原作者がやろうとしても出来なかったことをしたのだから全く問題はないでしょう、とのアドヴァイスを受けていた。

プッチーニは1858年に生まれ1924年11月19日に喉頭癌で死に、70年経った1995年11月20日に彼の著作権は消滅していた。台本担当のルイージ・イッリカは1857年生まれで1919年に、ジュセッペ・ジャコーザは1847年に生まれ1904年にこの世を去っており、これまた共に著作権保護は切れている。――続く
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2007年03月16日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―15

 ‘03年7月24日(木)〜27日(日)。作曲者プッチーニと2人の台本作家イリカ/シナリオ担当、とジャコーザ/韻文担当、という原作者が創った「マダマ バタフライ」の日本の地名や人名の固有名詞、習慣や信心の誤りを世界初に訂正した改訂版「蝶々さん」初演をテイアラこうとう(1102席)でおこなった。ダブルキャストで公開総練習2回、本公演2回。本公演は共にほぼ満員だった。

 公開総練習の入場料は3000円(自由席)。だが客は入れない状態でやるのが常の総練習なのに有料の客を入れ、全出演者、指揮者の飯守泰次郎、東京ニューシテイ管弦楽団には一円もお払いしてない。僕がお願いして彼らは快くその条件を受け入れてくれた。そうでもしないと公演は経済的に、はなから成立しない。

資金がないから大した宣伝も出来ない。それなのに都心のサントリーホールや東京文化会館のように客がついていないテイアラこうとう(1102席)という会場で殆ど満員の客が入ったのは、既に書いたが、ひとえにテレビ「徹子の部屋」にタイミングよく僕が出演できたお陰であった。放映が公開剛練習第一日の開演一寸前で、とたんにチケット申し込みの電話が鳴り出した。NPOみんなのオペラは大衆にオペラを安く提供し、多くの人にその面白さを知ってもらうのが使命である。だから二期会や藤原などメジャー・オペラ団の半額程の入場券代を歯を食いしばってつけている。だから本公演は全指定席9000〜4000円の入場料である。だから満員でも赤字だ。

 ダブルのキャステイングは、同じ役に2人の歌手がいると一人に事故があっても安心だし、何よりも相手に負けまいと切磋琢磨がある。ダブルキャスト公演は僕のモットーである。

 36名から2名選んだ蝶々さん役を始めとして、オーデイションを潜り抜けてきた歌手たちは、一生懸命僕の、そして指揮の飯守泰次郎さんの言うことを聴いてくれて練習に励んだ。

だがシステムが出来上がっている向こうの歌劇場の練習ではありえないようなこともあった。実際の家や階段はあるつもりでテープを床に張り形を作る。これを業界用語で“バミル“と言う。既に日本でもオペラを歌ったし、NPOみんなのオペラ「魔笛」公演の演出を経験していたから僕は、こいうミゼラブルな日本オペラ界の事情をよく知っている。バミリだらけの練習場だ。いつも練習や本番会場が変わるから舞台監督という職業が、大小道具や会場の手配、整備など裏方の大きな部分を掌握するのは向こうにはないことだ。だが誰にも指名されないのに、勝手に陰棒を振る者がでた。ーー客席からは見えない所で合唱やソリストの為の指揮をする役を陰棒という。向こうではコレペテイトウアー(練習ピアニスト)がやることになっていて、絶対他の人は手を出せない。陰棒だけでなく職掌はアンタッチャブルで他人の職種には絶対に手は出せない。こっちではまだまだ曖昧である。そして何よりも、向こうの歌劇場のように生活を保障してないから、欠席や遅刻、早退が多い。彼らは殆どが弟子や合唱を教えて食っている。だから何度も何度も同じことの練習を繰り返さねばならない。
――続く.
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2007年03月10日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―14

 苦言を散々戴いた試演会の貴重な経験を踏まえ、僕は「お秋」の脚色を始めた。「人情歌物語 松とお秋」は底辺に生きる男女の物語り。今度は「松」の二の舞をせずに、周五郎の原作「ほたる放生」全編を慎重に通し観て構成を考えて,大中先生に台本をお渡しした。

‘03年11月末に沼津のあるお寺の200人ほど入る会堂で「人情歌物語 松とお秋」の公開総練習は、僕の沼津在住の弟子T君が努力してくれて催された。満席だった。その約一週間後、東京文化会館(小)で日本点字図書館の本間一夫記念第二回チャリテイ・コンサートで始めてのお目見えをする。だがその名前は「周五郎の哀愁」だった。誰も知らない、一体何をやるのか判らない出し物だから山本周五郎の名前を使ったら客は入るのではないか。それが僕の読みだった。年間1億を超える赤字を善意の寄付で賄う日本点字図書館。そのチャリテイコンサート音楽監督として、理事として、絶対に幾らかでも黒字を出して寄付をせねばならない。当然ながら僕は奉仕出演である。一人で2時間を歌い喋るのだ。これまで歌ったどのオペラの役よりも長い!まだまだ暗譜は出来ていなかったから楽譜を見て僕は歌い喋る。舞台装置も照明も音響も入らないコンサートだった。でも目の不自由な方々への出し物として最適だと勝手に自負していた。

 そして僕は思い切って、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、「松」の原作のやなぎ屋の描写をそのまま取り入れた部分をカットした。大中先生が作曲した音楽共々である!沼津の総練習に先生は来ないことが一つの救いだったが、東京文化会館での公演には来られる。本来は前もって先生に削除して演奏することをお話しして謝るのが筋である。いや、作曲をして戴いてしまったらそれは一音符たりとも変えずに必ず演奏せねばならない。それがこの世界の鉄則である。それを無断で削除したのだ!

 ――後になって奏楽堂・日本歌曲コンクールの審査員の溜まり場で、同僚審査員の作曲家、木下牧子さんに話したら目を丸くして驚いた。――「ああ、それはいけません!」。そこに審査員の大中先生居られたが、だだニコニコとただ頷いておられた。「申し訳ありませんでした!」と平身抵頭した。尻の穴がつぼみ、ひや汗がにじみ出た!実は僕は作曲料を一円もお払いしていないのだ。これも全くの常識外!先生は何も言わずにお引き受けくださったのだった。それを、ああ、一部削除してしまったのだ!

 「松」脚色の整理作業、そして「お秋」の脚色は、試演会の翌日から始まった改訂版「蝶々さん」の立ち稽古と平行しておこなった。そして、チャリテイコンサートを聴かれた大中先生が何もお叱りを戴かなかったことを幸いに僕は、づうづうしくも、既に出来上がった「松」の喋りの一部の箇所を更に音楽化することを先生にお願いし、慈悲深きこと神のごとき先生はこれまた快諾をしてくださったのだった!――続く。
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2007年03月03日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―13

 散々の酷評だけで終わった「人情歌物語 松」試演会。その結果僕はオペラで,いや、人間のあらゆる約束で絶対にやってはいけない、モラルに反する暴挙に出てしまった!その非を心から恥じつつ、贖罪のために敢えてここに書く。

 僕の脚色の非力さから、「松」は舞台劇としての態をなしていなかった。周五郎作品は読むために書かれた。浅草は繁華な町並みの傍の、昼間でも人通りのないうねくねした横丁。恐ろしく古ぼけ、前のめりになったり片方に傾いたりしている長屋横丁の空き地に、吹き溜まりのように夜出る粗末な屋台、やなぎ屋。水で薄めた安酒、大根など安物素材の煮込みんを売る、無口な爺さん。そしてそこに憩いを求める底辺に生きる落魄の男たち。その描写が原作では延々と続く。日雇い人足の松も、番頭と浮気をしていた現場を偶然見てしまい若い女房に逃げられた初老の信吉も、やなぎ屋の常連である。この、やなぎ屋の描写が丹念な筆致で延々と周五郎は原作「嘘アつかねえ」で書いている。どぶろくに焼酎を入れたのを頼み、それをすぐには飲もうともせず、青白い顔をゆがめたまま深い吐息をつき、急に銭を投げ出して暗い闇の中に消えていく男。そんな描写の文をそのまま僕は大中先生に渡したのだ。それを先生は忽ち曲に仕上げた。

オペラは19世紀に入り市民生活が近代化されるに従い、市民の都会生活、特に最大のオペラ消費地・パリに合わせて短くなって行った。例えばヴェルデイは「ドン・カルロ」のパリ上演では5幕に縮小した。自分の作品だけを上演するバイロイト祝祭劇場を持つワーグナーは例外である。恐らく世界最軽量のオペラだろうが「人情歌物語 松とお秋」も休憩を挟んで2時間ほどであげたい。そうでないと地方公演では大小道具、照明・音響機材の東京からの運送、会場への搬入、そしてそれら種々の機材の設置などが厳しくなる場合が出てしまう。

時間的制約だけでなく、松という底辺に生きる男の悲しみに焦点を当てる舞台を創りたい。だから構成上、どうしてもやなぎ屋の描写はカット縮小し、松の悲哀をもっともっとクローズアップせねばならなかったのだ。――続く。
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