2007年04月27日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―21

このモノオペラは大敵である!――前年の12月の「周五郎の哀愁」公演での客の反応の悪さ。そして言葉が解らないというクレームが相次いだことの反省を踏まえ、前回に続いて沼津在住の弟子T君の助けを借りて、‘05年7月26日(火)夜、沼津牧水会、市教育委員会主催で、千本プラザで「改訂版 男と女の人情歌物語」と題を変えて「人情歌物語 松とお秋」が再演された。入場料は3000円。300席の小屋は前回に続き満杯だった。T君が一生懸命売ってくれたお陰である。それは翌年春の新宿・全労災スペースゼロでの4回の売り公演、そしてその後の夏のNPOみんなのオペラ本公演の前哨戦である。、僕は慎重に総練習を兼ねた後の本番をT君に頼んで沼津で続けてもらったのである。

本番は最高の練習である。本番を重ねることが出来るアーテイストこそが名声をも重ねる人なのだ!注文がきて客前で演奏するチャンスが多ければ多いほど雪だるま式に腕はあがる。注文がこなければいつまでも上達しない。

そして僕は、思い切って暗譜で演技をつけて歌った。演出家は僕だから自分に演技をほどこすわけである。楽譜を見ないからこそ演技は出来る。だがほぼ2時間の絶え間ない歌と喋りを覚えるの容易ではなかった!

――亡き山本直純君に」指揮で僕は何度もベートーベンの第九を大阪城ホールで歌った。「一万人の第九」である。彼はいつも譜面台の上に第九の総譜を閉じたまま置いて指揮をした。「そんなももの外しちまえよ!どうせ見てないじゃないか」いつもそうだが、彼は演奏中にそれを開いたことは一度としてないから、僕は言ったのだ。「おまじないだ!」かれはきまり悪そうに答えた。本番中にいくら慌てても目指す頁をめくる暇など無い。でも彼は総譜を置くことで安心して棒を振ったのだーー。暗譜は難しい。あれだけ例年暮れに第九ずけになる日本のプロオーケストラのどことして、まだ暗譜で第九を奏してはいない!――

舞台に出た。クラリネットの磯部、ピアノの安田、両共演者と満員のお客様に深くお辞儀をした。そして安田君に特に念入りな合図をした。最初は「松」。その出だしはピアノだけだから開始のサインを送ったのだが、彼女は僕が台詞を忘れたときのプロンプター役も兼ねている大切な人である。言葉が落ちそうになったら頼むぞ、との意味を込めていた。

――オペラ歌手にとリプロンプターほど大切な存在は無い。特に初演だの飛び入りで他の劇場で客演する場合だの、暗譜に自信がないときはプロンプターは神様だ。次の言葉が出てこないとき、舞台の真ん中、オーケストラボックスのドまん前にある小さいボックスに収まっているプロンプターに救いの視線を送れば、上手い人なら間髪をいれずに 小声でその言葉を囁いてくれる。これぞ救いの神なのだ!――

それは清水の舞台から飛び降りるような気持ちだった。彼女の指から鍵盤が前奏を奏で始めた。泣いても笑っても、約1時間の「松」。もう歌うほかはない。――続く。
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2007年04月20日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―20

 愛知万博イタリア館でプッチーニ・フェステイバル財団はオペラ「マダマ バタフライ」を上演した。その為に監督フランコ・モレッテイさんは夫人と来日し、名古屋からの帰りに東京のドームホテルに泊まった。カンパナーロ文化担当官と僕はあらかじめフロントで待ち合わせて、二人が降りてくるのを待った。金髪の夫人らしき女性の肩に手を掛けて中年の優雅な紳士がエレベーターの方からゆっくりと歩いてくる。「彼は目が少し不自由です」カンパナーロさんが僕に囁いた。

ホテルの一角のテーブルでセルフサービスの飲み物を前に僕ら四人はイタリア語で話し合った。ホテルの中の席という席は若い人たちで満杯だった。僕はローマの音楽院卒だから通訳は要らない。四人にとって外国語である英語で話すよりずーっと楽である。
 「どうしてまたモンゴルに!?」初対面の挨拶もそこそこにモレッテイさんがまず聴いてくる。「日本外務省のモンゴル担当・西村審議官が骨をおってくれました。我々“オペラ・デル・ポポロ”の理事長は元・中国大使の中江要介で、中江さんが西村さんに繋いでくれました」。
==僕が芸術総監督を務め発起人でもある“NPOみんなのオペラ”は、外国向けには“Opera del Popolo”と、古代ローマの人民広場“Piazza del Popolo”から考え付いた名前を使っている。その前理事長・中江要介は駐エジプト大使時代にカイロに歌いに行った時に大変お世話になった方で、外交官にしてバレエの台本作家でもある。僕は既にウランバートルに飛んで、ソビエト連邦にモンゴルが組み込まれていた時代にシベリア抑留の日本兵たちが建造したという500席程のバロック風国立オペラ劇場で「ジンギスカン」「ラマ僧の涙」というモンゴルオペラを観てきた。西村さんの手配のお陰で、東京から同行した二人の日本人プロデユーサーA氏、O氏と僕の3人だけのために、何と国立劇場は無料でこの二つのオペラを上演し、馬頭琴楽団のコンサートを開いたのである!女性の劇場支配人と文化担当官バトムンク氏は、改訂版「蝶々さん」の現地上演のために劇場、裏方、オーケストラの無償提供を約束してくれていた。しかしオーケストラ抜きでも総勢50名ほどになる人員の出演料、旅費、滞在費などは総て日本側持ちである。ソ連邦から独立してからまだ歴史が浅く経済基盤の甚だ弱いモンゴル側がそれを負担できないのは明らかである。==

この次第を僕はモレッテイさんに説明した。「少なくとも西村審議官や、中江理事長を始めとする我々NPOみんなのオペラ理事一同は、正しい日本の姿を示す“マダマ バタフライ”上演を世界中でしたいと意気込んでいます」。国外生活が長い邦人は皆、世界で上演され続けているこのオペラの国辱的公演に眉をひそめているのは確かである。「解りました。ではモンゴル公演にもお力になれるように考えましょう」一呼吸あって、「だが、それよりイタリアでの上演にはずーっと興味があるでしょう!!――」僕は耳を疑った。――続く。
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2007年04月13日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―19

日伊声楽コンコルソ。その本選会場・東京文化会館(小)にカンパナーロさんがゲスト審査員として東京文化会館(小)にやってきた。イタリア文化会館の文化担当官だからイタリアの歌だけでのコンクールの公平な審査員として最も適任だ。――僕も審査員の一人である。

「僕のあのマダマ・バタフライの世界初の原作の日本誤認改定は日本語とイタリアの両国語ででした。日本での上演でしたからーー。今度はイタリア人と一緒に原語・イタリア語での、世界中で上演出来る改訂版を作りたいのです」審査の合間の休憩に僕は彼に話した。「そうだ!」彼は短くしかし力強く頷いた!「愛知万博のイタリア館・総責任者、ドットーレ・ウンベルト・ドナーテイ、そして、プッチーニ・フェステイバル財団監督、ドットーレ・フランコ・モレッテイ。この二人にすぐに僕から紹介されたと言って手紙を書いてください。ドナーテイさんはプッチーニ・フェステイバル財団理事でもあります。僕は二人にすぐに電話を入れますーーあの上演の資料を入れることも忘れないで!」。その時、正確に何を彼が考えていたのかは僕には当然判らない。しかし、何かが大きく動きそうな感じを、彼の「シイー!――(そうだ)」という最初の言葉に置いたアクセントで僕は受け取った。そして2年続けて改訂版「蝶々さん」NPOみんなのオペラ公演を見に来たときの彼の興味しんしんたる反応を僕は思い出していた。

それから数週間だったと思う。僕は彼からの電話を受け取った。「あなたの送った手紙と資料を見て、ドットーレ・モレッテイがお会いしたいと言ってます。彼は愛知万博の為に来日します。僕も立ち会います。ドットーレ・ドナーテイは残念ながら万博を離れられないそうです」。

実は僕もモレッテイ監督から日本で僕と逢いたい旨のメールを少し前に受け取っていた。‘04年の再演の初日A組のライブ収録DVDと、何が原作の間違いかを詳細に書いた公演プログラム、そしてその英訳を僕は二人に送ってあった。――何かが起こる!

そして僕は、後楽園のドームホテルで、モレッテイ監督と同夫人、カンパナーロ文化担当官と4人で逢うことになったのである。――続く。
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2007年04月06日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―18

日本点字図書館・本間一夫記念第二回チャリテイコンサートは「周五郎の哀愁」と名付け、その後「人情歌物語 松とお秋」となった新モノオペラで、東京文化会館(小)で‘04年12月4日におこなわれた。僕はマイクを使わずに、通常のクラッシックコンサートと同じく、譜面台の前に立ち楽譜を見ながら、大道具も小道具も照明もなしに全9役を歌い喋った。演技は何もつけなかった。だが、まだ誰もやったことの無い試み。してやったり!さぞかしお客は喜んだだろう、と意気揚々と最後の拍手を受けたが、しかし、期待通りの反応はなし。一人で2時間以上の舞台を務めたことに対するねぎらいに違いない手拍子だけが続いた。

 あらゆるオペラの主役で、実際に声を出している時間の合計が1時間を越えるものは無いと思う。間奏が、相手役が、合唱が間を縫って歌い奏するから、舞台にいる時間が長くても、歌手としての実労働はさほどない。僕の声のバス役の極めつけの役は「ボリス ゴドノフ」。これを計ってみると声を出している時間は1時間を切る。「マダマ バタフライ」「椿姫」などの他のタイトルロール(役名がオペラの題名になっている役)も1時間を切るだろう。だが「人情歌物語 松とお秋」は劇全部で1時間55分程で、その全9役を一人で歌い喋るのだから実労働はほぼ1時間45分になるのだ!!

 「言葉が解らなかった!」「マイクを使ったら!」終演後そういうクレームが身近な人たちから相次いだ。松とお秋という江戸庶民社会の底辺に生きる男女の悲哀を細かく綴った「人情歌物語 松とお秋」。言葉が解らなければ全然面白くない。東京文化会館(小)は非常に音響の良いクラシック音楽ホールである。だから僕はマイクなしで歌い喋った。伴奏はクラリネットとピアノだけだから毎年ここでシューベルトの「冬の旅」を歌うようにやれば、充分歌も喋りも客席に届くはずだと計算していた。このような上等なホールでマイクを使う必要はさらさらないと思っていた。言葉が聞こえてこない、マイクを使え、と言われるが、多分その原因は、僕の練習が足りなくて、日本伝統の話芸のような自然さが特に喋りになかったからだ。そう僕は解釈したーー続く。
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