2007年10月31日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―47

フランスという西欧先進国人が世界にその身を晒し始めた日本を描く、うそ偽りのない 日本の姿「お菊さん」。作者ロテイは長崎港に着くやいなや、子供が漕ぐ小船(サンパン)に乗り乗艦を離れ港に着き、寄ってくる人力車の一つを選び、しのつく雨の中を百花園へとまわらぬ舌で命じ、とたんにジン(引き手)はしたり顔でひたすら走り、目的の家に着ける。ロテイは鼻を床に擦り付けて四つんばいになる小さいみっともない小猿のような二人の女にムッシュウ・カングルウ(勘五郎)とかいう通弁、洗濯屋、結婚の秘密周旋人と話したいと頼むと、即座に年上の方が探しに行く。 ==オペラ「マダマ バタフライ」の女衒ごろーは勘五郎から来ているのだろう。長崎では「マダマ バタフライ」の悲劇――蝶々さんと呼ばれる女性が一時結婚を本当の結婚と信じて異人の夫を待ち続け、裏切られる悲劇――のシステムは見事に出来上がっていたのである==
 ロテイが異国船乗り向け女性の周旋所・百花園でフランス語を話す洋服を着た勘五郎に女性の注文を出す前に、いち早く勘五郎は何人かの候補者たちの条件を並べ立てる。8日も後頃に来る下関の二人の年頃の娘を持つ男を待つか、一昨日ロシアの士官に取られてしまった可愛い子、月百円――当時の百円は凄い大金であるーーで教養のある金持ちの娘だが器量の悪い子。そして隣室で三味線を弾き客前で歌っていた子をロテイが所望すると、勘五郎はとんでもない、あれは芸者だと言って拒否する。==その訳をロテイは後に理解することになるのだが、15歳の芸者という設定になっているオペラの主人公・蝶々さんは、いきなり入港したての船乗りに当てがう女性ではないということになる。もちろん、プッチーニ達・原作者がこの本を参照にしたことが前提になるのだが。==

そして結局ロテイは勘五郎が急に思い出したジャスミンという15歳の月18−20ピアストル(1ピアストルは2円だから36−40円)の15歳の非常に可愛いらしい娘の所にその夜交渉に行かせることで満足する。==ついでながらロテイが雇った人力車の1時間の料金が10スウ/20銭だから、月40円のジャスミンの値段は人力車200時間分ということになる。今の日本の値段だとハイヤー1台を1ヶ月間契約するくらいのものだろうか――続く。
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2007年10月24日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―51

ロテイは彼の一時妻お菊さんと彼の従卒イヴの3人で長崎郊外の山の大きな庭に行く。 この庭園の静けさの中で、この山々の生温い沈黙の中で、下の方から聞こえてくる或る大きな音がいきなり私たちを驚かす。類のない、力強い、恐ろしい音で、或る限りなく長い金属の振動音となってどこまでも伸びて行く。――そうしてまた始まる。更に恐ろしい音を出して、ブウムーー、と、吹き来る風の途絶え途絶えに運ばれて。「ニッポン・カネ!私たちにクリザンテエム(お菊さん)が説明する。――日本の鐘が響いている!――それは私たちの下の方の郊外にある或る寺の恐ろしく大きな鐘である。――なるぼど!力強い「日本の鐘」だ!撞き止めた後で、それがもう聞こえなくなってまでも、震動はあたりの木立の中に残り、無限の震響が空気の中に残っているように思われる。―― ==オペラ「マダマ バタフライ」のオーケストラ総譜、第一幕の中に〈舞台裏からの低いタムタム〉と指定された楽器が出てくる。キリスト教に無断で改宗した姪の蝶々さんをなじりにやってきた、彼女の叔父の僧侶・ぼんぞーの登場に合わせて、他の弱奏を突き抜けてその鐘は低く大きく聞こえてくるように作曲されている。これはまがいもなく上記の「日本の鐘」から取られたものであろう。(多分)世界初にこのオペラの日本誤認を訂正した2003年と4年の東京での公演で、僕は実際の寺の鐘を録音して舞台上で流した。巨大な寺の鐘を劇場に持ち込むことは不可能であるから。――それまでは中国のドラを打楽器奏者がオーケストラボックスか舞台裏で鳴らしていた。==日本が世界に身を晒してまだ30年あまりの、1885年夏の日本体験記、フランス海軍士官ロテイの著「お菊さん」から取られた日本の風習、習慣、宗教観などは、プッチーニ作曲のオペラ「マダマ バタフライ」に限らず、19世紀末に西欧人が、珍しい日本を描いた作品の中に多いのではないだろうか。――続く。
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2007年10月16日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―46

フランス海軍士官、ピエール・ロテイが、鎖国を解いた日本体験記「お菊さん」を世界初に書いたのは1887年のこと。それから11年後にアメリカ人ロングがこのオペラの基になった戯曲「マダマ バタフライ」を発表し、更に2年経ってプッチーニは「マダマ バタフライ」の作曲の筆を執り始めた。日本が世界にさらされ始めてからは34年経っている。「お菊さん」が出る2年前の夏、1885年、明治18年、ロテイ36歳のときに、いかに退屈のひと夏を、長崎の郊外で、一人の憐れむべき日本のムスメと過ごしたかをありのままに描いたのが「お菊さん」である。 ==「お菊さん」は小説発表の10年後にメサジェによって同名のオペラになりパリで初演されたが、プッチーニはその前年の8月の殆どを作曲するメサジェエと一緒にイタリアのエステ荘で過ごした。その第一幕の親戚一同と結婚式、そして愛の場面をプッチーニは参照したのではないかと思われる== ロテイはその序文でこの本を献呈した公爵夫人に書く。「この本の全体を通じて最も重要な役割はマダム・クリザンテーム(お菊さん)の上に在るごとく見えるかも知れませんが、その実、三つの重要な人物は、と、それだけです」==まさしくこの「お菊さん」は西欧先進国人が始めて見た好奇の的の国・日本の最初の見聞録で、そこには西欧人が陥りやすい日本誤認の種が数々記されているのである。欧米列強が植民地政策の最後のターゲットとした極東。日清戦争勃発が1894年で、その前から極東の地はきな臭くなり各国は軍艦を派遣した。その拠点が地の利のいい国際港、長崎である。ロテイの乗艦ラ・トリオンファントは長崎のドックでのアフターケアーの為に入港した==。そこには各国の船が入り乱れ、乗組員相手の商売のために黄色い小人たちが、籠や小箱などに靴、石鹸、急須、生きた蝉、厚紙を回す小鼠、いかがわし写真、などを売りに乗り込んで来るところからこの体験記は始まる。水兵たちは面白がって物売り女の顎をつまんで白い銀貨を撒き散らし、何でも買ってやるのである。「それにしても、まあ、この人間たちはいかに醜く、卑しく、グロテスクなことだろう! 私はせっかく結婚の計画までたてたけれども、だんだんと考えこんで興ざめてきた」。==と彼は書く。結婚とは長崎にかなり長く寄航する外人たちが、例外なく期待する、一時妻の日本女性をと家を持って囲うことなのである。――続く。
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2007年10月10日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―45

前回に書いたように、聴衆に散々の罵声を浴びせられ、契約違反で返金をしてまでその後の上演を引っ込めた「マダマ バタフライ」のスカラ座に於ける初演の2週間前に始まった日露戦争で、世界の予想を裏切り、東洋の小新興国・日本は連戦連勝を大ロシアに対して収めていた。 ここからは想像である。実はこれから書くことはかって読売新聞編集委員の方が、丁度日露戦争後100年の機会にこの戦争を振り返って紙上に連載をされていて、その中の記事を書く前の確認の為に僕に電話をしてこられたことから気が付いたことである。――プッチーニとその2人の台本作家、イリカとジャコーザは日本を見直した! そして長すぎた第一幕の日本を後進国として扱った侮蔑部分を削除した。それは:長崎滞在中の新婚の家の面倒を見ることを請け負った女衒のごろーが示す、日本人の3人の召使いを面(つら)1号・2号・3号と軽蔑してピンカートンが呼ぶ箇所。蝶々さんがピンカートンに自分の家族のことを話す場面で、話術に長けた怪僧ぼんぞーと間抜けのやくしでという二人の叔父のことを言うとピンカートンが「坊主と間抜け、良いコンビだ」とあきれる場面。ピンカートンが三人の「面」を呼び、砂糖漬けの蜘蛛と蠅、シロップのかかった巣と消化に悪い酒、など日本の珍味を所望する箇所。ごろーがピンカートンに結婚の許可を与える式をおこなう役人や蝶々さんの親戚一同を紹介し続け、一同が大げさにお辞儀し続けるのを見てピンカートンがもう腰が曲がらないとこぼす部分。やくしで叔父が「ぬんきー、ぬんこやま」という訳のわからない祝い歌を酔って歌う部分。などなど。 明らかにオペラとして舞台にかけるにはそこには人目に晒すには耐えられない明かな日本誤認があり、それが全部ではないが削除されたことは日本人として欣快にたえない! だがしかし、どうしてこういう誤認が起こったのだろうか!――多分そこには、日本の体験記を最初に書いたフランス海軍士官ピエール・ロテイの「お菊さん」という本をプッチーニたち原作者が読んでいたからであろう、ということが想像されるのだーー続く。
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2007年10月04日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―44

Tragedia Giapponese=日本の悲劇”。これがオペラ「マダマ バタフライ」に原作者がつけた副題である。マダマ・バタフライは蝶々夫人の意味だから“蝶々さんの悲劇”、或いは“蝶々夫人の悲劇”、或いは蝶々さんの職業で欧米では日本ブーム/ジャッポニズムに乗って「日本で芸者を見ざるは、エジプトでピラミッドを見ざるがことし」と言われた有名な「芸者」から“一芸者の悲劇”、或いは“一日本婦人の悲劇”と夫に裏切られ自殺して果てる主人公・日本女性の悲劇ではなく「日本の悲劇」と副題にしているのである。それは何故か? ここに僕は、原作者達が意図して日本という西欧社会にとり新興の、未知の東洋の国家だから起こった悲劇という意味合いを持たせたのではないだろうか、という感慨を抱く。日本が鎖国を解いたのは1853年の初のペリーの来航、そして翌年の徳川幕府との通商条約締結によってであった。「マダマ バタフライ」の初演は1904年2月17日、日露戦争開始後2週間の時。ペリーの黒船来航で世界に出てから約50年。オペラが書かれ始めたのはその約2年前、1902年4月7日のことであった。更にその二年前、1900年夏にロンドンのデユーク  オブ ヨーク劇場でベラスコの演劇を見てプッチーニは蝶々さんを題材にして「トスか」に続くオペラを書くことを決めた。プッチーニは日本を舞台にした「イリス」を書いたマスカーニとまだ仲が良く、「イリス」に触発されたのか、非常に日本に興味を持っていた。「イリス」の台本作者は「マダマ バタフライ」の3人の原作者の一人であるイリカである。プッチーニは二人の台本作家とチームを組み「マノン レスコー」「ボエーム」「トスか」を既に大成功裡に世に出したが、その一人がイリカで主に台本構成をそしてもう一人のジャコーザが主に詩作を担当した。そして恐らく、日露戦争の緒戦から西欧の大国ロシアに対する東洋の新参国が連戦連勝を続けたと報じる新聞を驚きの目で読んでいたのに違いない!――そしてそのミラノ・スカラ座における初演はオペラ史上、「椿姫」「セヴィリアの理髪師」と並ぶ、有名な聴衆からの大敗北を喫してしまったのである。 スカラ座から「マダマ バタフライ」を契約違約金を払ってまで引っ込めたプッチーニは僅か3ヶ月あまり後の5月28日にミラノからさほど遠くはない北イタリアのブレシャはテアトロ・グランででこれを再演した。その時プッチーニは第一幕に大幅な削除を施し、最終部分で蝶々さんを裏切って金髪の妻ケートを連れて日本に帰って来たピンカートンに後悔のアリア「さよなら、花に飾られた隠れ家よ」を歌わせる挿入を施した。再演は、今度は大成功でカーテンコールは7回にも及んだのだった!では一転したその成功の原因は一体何だったのか?――続く。
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