2008年01月29日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―60

ロテイの「お菊さん」からロングの「蝶々さん」という二つの小説を経、ベラスコの戯曲「蝶々さん」が生まれ、ロンドンでそれを見たプッチーニがオペラ「マダマ バタフライ」にしたという系図の中の、ベラスコの「蝶々さん」のことを今日は書こう。
デイヴィッド・ベラスコ(1856−1931)はポルトガル系移民の息子で、俳優でもあり、1882年から8年間マデイソン・スクエアー劇場の舞台監督を務めたあと、プロデユーサーとして独立し、数々のヒット作を出した。そのベラスコが期待の若手女優ブランチ・ベーツを売り出すために、二年前にニューヨークの文芸誌センチュリー・マガジンに掲載されたジョン・ルーサー・ロングの小説「蝶々夫人」の戯曲化を思いついたのである。彼は原作者ロングに協力を求め、わずか二週間で脚本を書き上げたそうである。――小川さくえ著「オリエンタリズムとジェンダー」よりーー。有名な話だが、ロンドンのデユーク・オブ・ヨーク劇場でベラスコの芝居「蝶々夫人」を観たプッチーニは、英語を殆ど理解しなかったのにも係わらず、終演後ただちに舞台裏で涙を浮かべてベラスコを抱きしめ、作曲の許可を求めた。プッチーニは彼の最近作「トスカ」のコベントガーデン劇場での5月の初演のための練習に立ち会うためにロンドンに滞在しており、次作の題材を探していて、コヴエントガーデンの舞台監督ニールソンに勧められてベラスコの「蝶々夫人」を観行ったのである。この芝居はその前月4月に(28日初演)ニューヨークで大ヒットしていた。19世紀という、まだテレビもラジオも映画も、舞台の敵ではなかった時代、産業革命の成果で活字はしかし市民生活に大いに宣伝効果を与えていた時代、芝居、そしてそれに音楽を伴ったオペラが娯楽の王座を占めていたのは当然の成り行きであった。

 有能なプロデユーサーであるベラスコは、どうすれば観客の心を捉えることが出来るかを充分に心得ていた。当時、欧米で熱狂的な人気を集めていたジャポニズムの風潮に乗って、「日本的なもの」の神秘性、奇矯性、エロテイシズムを前面に押し出し、ヒロインの愛と死からなるエキゾチックなメロドラマを作り上げたのである。――小川さくえ著「オリエンタリズムとジェンダー」――。

 ベラスコは、「お菊さん」、ロングの「蝶々夫人」と続いてきた「マダマ バタフライ」の同じような劇構成をガラリと変え、ピンカートンの軍艦が長崎に入港する朝から翌朝までの丸一日、約24時間後に蝶々さんが自害するまでのことに凝縮した。そこにはしかし、日米文化摩擦、そしてこの芝居をプッチーニが作曲したオペラ「マダマ バタフライ」の中に出てくることがぎっしり詰まっている。演出する身として克目すべきことは、舞台照明がガス照明から電気照明に進化し、照明技術が飛躍的向上を遂げたとたんの1900年代初頭のこととて、優れた演出家ベラスコが始めて14分間の沈黙という画期的な長さの間を使って、蝶々さんがピンカートンの帰宅を障子に穴を開け除きながら、幼子と侍女すずきと共に, 今か今かと待つ間の照明変化を観客に提供したことである。――続く。
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2008年01月22日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―59

明治維新以後の本格的にしてほぼ最初の日本体験記ロテイ著「お菊さん」がオペラ「マダマ バタフライ」に与えた影響は大きいが、このオペラの直接の誕生はベラスコの戯曲「蝶々夫人――日本の悲劇」であり、この戯曲が創られたのはロングの同名の小説からだった。そこで、まずロングの「蝶々夫人」からその概略を書いておこう。
 ジョン・ルーサー・ロング(1861−1927)の短編小説「蝶々夫人」は、ロテイの「お菊さん」が「フィガロ」に連載を始めた11年後の1898年に、ニューヨークの文芸誌に発表された。彼は35歳のフィラデルフィア在住弁護士だった。3年前の1895年に「東京のサクラさん」という小説を発表していたロングは実姉の影響で日本に強い興味を抱いていたが、一度も日本に行ったことはなかった。当時の一般人にとっては海外旅行は今と違い、非常な難事であった。ロテイは海軍軍人であったから何度も日本を訪れることが出来た。そしてロングの姉サラ・ジェイン・コレル(1848−1933)は夫アーヴィン・ヘンリー・コレル(1851−1926)と共に宣教師として何度か日本に渡り長崎でも布教活動をし、そのとき見聞したことを実弟ロングに語って聞かせたのである。いつも蝶々の紋をつけた着物を着ていた、英国の豪商グラバーの後妻、つる夫人とコレル夫人は親しくしていたから、つるが主人公・蝶々さんのモデルだと言われている。しかしロングは明らかに、ロテイの「お菊さん」から作品の構成を真似しているのである。物語の導入部分の艦上での二人の海軍軍人の会話、周旋人を介した日本式結婚、長崎港を見渡す高台での結婚生活。前編で引用した、小川さくえ著、「オリエンタリズムとジェンダー」−「蝶々夫人」の系譜―/法政大学出版局はこう言っている。これらは「お菊さん」の完全な焼き直しであり、一種の引用である。そもそもタイトルのMadame Butterflyが英語のMadam ではなく、フランス語のMadameと綴られていることからも、ロングがあからさまに「お菊さん」Madame Chrysanthemeとの関係を誇示していることがうかがわれる。

 いったいなぜロングはこのような模倣をおこなったのだろうか。ロテイとはちがって、実際に来日した経験のないロングには、ロテイの真似をする以外に手段がなかったのだろうか。いや、そうではないだろう。すでに日本物の小説をほかにも手がけていたほど日本通であり、姉から豊富な情報を得ていたロングならば、焼き直しの印象を避けようと思えば、方法はいくらでもあったはずである。だとすれば、逆にロングは、ここで明白な意図をもって「お菊さん」を模倣したと考えるべきであろう。すなわちロングは、この模倣ないしは引用によって、読者に対して明確に、自分の作品がロテイの「お菊さん」の継承であり、発展であることを宣言しているのである。

 ロテイの「お菊さん」の影響力をオペラ「マダマ バタフライ」に見る我々は、決してその重要性を忘れるわけにはいかないのだ。――続く。
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2008年01月15日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―58

 オペラ「マダマ バタフライ」の下敷きとなった、ロングの小説「蝶々夫人」を書くつもりだったが、先週土曜に「オペラが観た日本/日本が観たオペラ」――黒船・夜明け・オリエンタリズムーーというオペラの講演会/座談会を聞いたので、忘れないうちにそのことを先に書きたい。
 1月12日(土)午後、母校・早大の小野梓記念講堂で行われたこの講演会は、早稲田大学演劇博物館グローバルCOEプログラム・オペラ/音楽劇の学際的アプローチプロジェクトのひとつとして、山田耕筰の「黒船」が2月に新国立劇場で上演されることを踏まえての、下記の出演者の話を聴く会だった。一般大学でのオペラについての学問的シンポジウムはまだ珍しいことだ。

基調講演:1)「日本に於けるオペラの位置と実際」――若杉弘(新国立劇場オペラ芸術監督)、2)「日本オペラに関わっての半世紀」――栗山昌良(演出家)。シンポジウム/講演:1)「音楽劇の普及と大衆の(西洋化)」――袴田麻祐子(早大演劇博物館グローバルCOE研究員)、2)「声の日本主義――山田耕筰を中心にーー」――片山杜秀(評論家)、3)「(沈黙)する日本表象?――松村禎三の切支丹オペラ」――長木誠司(東大準教授)、4)「蝶々夫人と黒船」――小川さくえ(宮崎大学教授)。 

 若杉・指揮、栗山・演出でわが国初に創られた本格的グランドオペラ「黒船」は新国立劇場で来2月に上演される。「黒船」は言わずと知れたペリー来航のときの下田での話である。

この二人の発言で印象に残ったのは:若杉=「日本人歌手の実力は外来歌手と同様までにあがってきたのに、漢字のなまえの歌手が主役を歌うと客入りは60%台なのに横文字の歌手のときには90%台に上がること」。「初台の新国立劇場では沢山の人が働いているがやっていることは通常の役所と同じである」。栗山=「山ほどの和製創作オペラの演出をしてきたけど、その殆どは初演されるのみでお蔵入り。死屍累々たるものだ」「黒船の前奏曲は20分もかかる長大なものだが、原作どおりに上演するということなので、カットせずにどうやって演出するかが大問題である」。外来崇拝の聴衆。普通の役所のようなところ に舞台芸術製作を任せているわが国の体質。創っても創っても駄目な創作オペラ。歴史教育的な上演を聴衆に押し付けるオペラ製作態度。それらがいみじくも垣間見えたのだ。

 4人の学者たちのシンポジウムを聞いた後の質疑応答で、僕は客席から小川さくえさんに質問をした。――このブロッグで彼女の著書を引用させてもらっていることは、継続してお読みになっている読者はお解かりだろう。――「オペラ・マダマバタフライはパリ版への改定で主人公・蝶々さんの性格は変わってしまいましたが、その前後ではどちらがお好きですか?」――しばらく考えて彼女はやっと答えた。「――前の方です」長木さんが口を挟んだ。「岡村さんはたしか、改訂版を、――鐘の音を直されたとか?」「ぼんぞー登場のところでの、「お菊さん」を参照したと思える寺の鐘ですね。あれはずーっと、中国の銅鑼を叩く間違いをしてきたので、お寺の鐘の音を録音して舞台後方から流しました」「それと風鈴ですか?」――どうも長木さんは東京ニューシテイ管弦楽団の指揮者・内藤さんが考証したプッチーニの楽器の日本誤認改定公演と僕の改定公演を混同しているようである。風鈴とは、結婚式の最中に舞台で鳴るようにプッチーニが指定しているものを、これまではチャイムか木琴でオケボックス内で演奏していたもので、内藤さんは風鈴(のような)楽器を使って上演した。「僕は、プッチーニの音楽には一切手をつけてません!――だいたい長3度の音程で風鈴が結婚式の最中に鳴るなんてことは、何万分の一の確率でしかありえないでしょうから」「音楽には一切手をつけてないのですか!――そういえば、いろいろなオペラで異国のことを間違っているのがありますね!」「白人圏以外の国についての過ちは放っておかれています!!」「―――なるほど!――そういう、過ちも研究せねばなりませんね。――」

 ――母校・早大が「オペラが観た日本/日本が観たオペラ」というシンポジウムで、オペラ研究に新機軸を打ち出したことに一校友として大拍手を送るとともに、日本を世界に知らしめる最大のオペラ「蝶々夫人」の日本誤認に、専門家たちでさえも全然意識が行ってなかったことを一日本人として悲嘆するものいである!

ついでに書いておくが、「マダマ バタフライ」の中で、ピンカートンの名前はベンジャミン・フランクリンで、それがB・F・ピンカートンとなっている原作をロンドン上演ではF・B・ピンカートンと書き換えられた。ごく小さいことだが、改定であることには違いない。なぜB・FがF・Bと変えられたか。それは同じ英語の国でも、米国ではかまわないのだが、英国ではB・FはBloody Foolというひどい侮蔑語を表すので使えないからである。ドナルド・キーンさんが教えてくれたことである。――続く。
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2008年01月08日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―57

正月休みで喉がタルんでいる。今年の歌い始めは19日の当NPOの「新春の集い」。そろそろ声帯のネジを巻き始めねば!
 さて、このところ続けたロテイ著の「お菊さん」がオペラ「マダマ バタフライ」に与えたであろう影響はこのあたりで筆を措くが、この本のことをまとめておこう。小川さくえ著、「オリエンタリズムとジェンダー」−「蝶々夫人」の系譜―/法政大学出版局によると下記のようである。

――筆名ピエール・ロテイは本名をルイ・マリ・ジュリヤン・ヴィヨと言い、1850年1月14日にフランス西部の港町ロシュフォールに生まれた。海軍兵学校を卒業後、60歳で退役するまでの42年間、海軍一筋に勤め上げ、その間、海軍で、近東、アフリカ、極東の港に寄港し、それらの体験をもとに小説、紀行文、随筆などを著した。その繊細で美しい文章、そして詩情あふれるエキゾチックな文学世界は、当時、フランスだけでなく欧米諸国で高い評価を受けた。1891年にエミール・ゾラと争って41歳という異例の若さでアカデミー・フランセーズ会員に選出されたことや、73歳で死去したときに国葬の栄誉を贈られたという事情をみれば、文学者としての高い評価と世界的な名声の一端は明らかであろう。

 ロテイが海軍大尉として初めて長崎を訪れたのは、1885年の夏、35歳のときだった。彼は、この港町でお兼ねさんという18歳の女性と同棲生活をおくり、日々の出来事や折々の所感を、7月8日から8月12日までの36日間、日記として記録した。その日記をもとに、1887年12月から「フィガロ」誌に連載されたのが、小説「お菊さん」である。この作品は、その後カルマン・レヴィ社(1893年)その他から、単行本として公刊された。

冒頭に添えられたリシュリュー公爵夫人宛の献辞によれば、これはある一夏の日記であり、日付も含めて少しの変更も加えられることなく作品化されたものだという。しかしこの言葉は真実ではない。実際には、小説の日付はほぼ二倍に引きのばされ、九月十八日に日本を離れたことになっている。日本滞在中の日記は、「ロチのニッポン日記――お菊さんとの奇妙な生活」(船岡末利翻訳、有隣堂,一九七九年)というタイトルで翻訳も出ている。両者を比較すれば明らかになるとおり、小説には、日記になかったエピソードが新たに挿入されたり、三十五頁におよぶ七月二十四日付けの日記が、いくつかの日付に小分けされたりしている。だがその他の点では、日記におけるお兼さんとの同棲生活の記録や、日本の自然、長崎の庶民の生活、習慣などの描写は、かなり忠実に小説に取り入れられている。

 「お菊さん」の連載が始まったころというのは、十九世紀後半に盛んだった「日本趣味」が多くの芸術領域にいっそう深く浸透し、ジャポニズムのうねりとなって西欧を席巻した時代である。日本の浮世絵は。すでに一八六二年(文久二年)のロンドン万博に出展されて観客を魅了したという。その後、一八六七年(慶応三年)のパリ万博、一八七三年(明治六年)のウイーン万博、一八七八年(明治十一年)のパリ万博と、江戸幕府も明治政府も、日本の美術工芸品を熱心にヨーロッパに売り込んでいた。ちなみに一八六七年のパリ万博では、日本館に水茶屋が出店され、三人の柳橋芸者が接待役を勤めている。これらの芸者について清水勲は「明治の風刺画家・ピゴー」(新潮社、一九七八年)の中で、「彼女たちは名前をかね、みす、さとといい、いずれも大変な美人で客にお茶や味醂酒の接待をした。それが人気を呼んで、この水茶屋の前は連日大にぎわいだった」(二二頁)と紹介している。「カルメン」の作者ブロス・メリメや、日本美術の研究家として名高いエドモン・ド・ゴンクールなども、この日本館と水茶屋を毎日のように訪れたことが知られている。

 当時、世界的大都市であったパリの万博には三千万人から五千万人もの入場者が集まった。万博が日本美術の知名度を高めるのに大いに役立ったことは疑いないだろう。やがて収集家や画家や文学者のあいだで、しだいに日本美術への評価が定着していった。

 音楽の領域でもジャポニズムの影響は明白に現れていた。とくにオペラ、オペレッタの分野で日本趣味の直接的な反映がみられた。鶴園紫磯子も「音楽――近代音楽の誕生とジャポニズム」で指摘するとおり、当時ジャポニズムの時流に乗って日本を扱った作品は、サン=サーンス作曲のオペラ=コミック「黄色い皇女」(1872年、オペラ・コミック座)からプッチーニ作曲の「蝶々夫人」(1904年、ミラノ・スカラ座)に至るまで十数曲に及んだ。1885年にロンドンで上演されたアーサー・サリヴァン作曲「ミカド」や、1898年にローマで初演されたマスカーニ作曲「イリス」などもそこに含まれる。

 このように「不思議の国」日本への関心は高まる一方だった。だが極東は実際に訪問するにはあまりに遠い。そんなときに、明治初年の日本にみずから足を踏み入れ、日本女性と同棲した経験を持つ作家が、本格的な文学作品を発表したのだから、「お菊さん」が大きな反響を呼んだとしても驚くには当たらないだろう。実際この本は、発売後五年間にフランス語だけで二十五版を重ね、多くの言語に翻訳されたのである。「誤解――ヨーロッパVS.日本」(徳岡孝夫訳、中央公論社、1980年)の著者エンデイミョン・ウイルキンソンは、当時の「お菊さん」人気について、「それを支えたのは、十九世紀のビクトリア朝の道徳にがんじがらめになっていたヨーロッパ人が、性において奔放な東洋に対して抱いた無限の憧憬だった。工業化の初期にあった西洋の都市の醜さにひきくらべ、世界旅行がまだ冒険であった時代の東洋の話は、美しい逃避の花園を示唆してもいた。(七三頁)と解説している。これほど評判になった「お菊さん」をオペラ界が放っておくはずはない。1892年にはすでにフランスの作曲家メサジェによってオペラ化され、翌年一月にルネサンス座で初演されている。

 だがそれだけだったら、「お菊さん」は、ジャポニズムの衰退とともに、やがて人びとの記憶から消えていったかもしれない。たしかに明治初期の日本を西洋人の目で観察した数少ない著作として、一定の価値は保たれたであろうが、出版から100年以上のときを経た今日でも、いまだにその名がたびたび話題にのぼるという事態には至らなかったであろう。そうなったのは、なにより「お菊さん」の延長線上にプッチーニのオペラ「蝶々夫人」が位置するからだといえる。ロテイの「お菊さん」はすでに述べたように、欧米諸国で好評を博し、ラフカデイオ・ハーンをはじめ、多くの文学者に影響を与えた。アメリカ人のジョン・ルーサー・ロングも、ロテイを愛読したひとりである。ロングは、1898年(明治三一年)に「お菊さん」を彷彿させる短い小説「蝶々夫人」を発表した。「蝶々夫人」は欧米でベストセラーとなったが、デイヴィッド・ベラスコがこの小説を戯曲化した「蝶々夫人――日本の悲劇」のほうもニューヨークで大成功を収めた。ベラスコは舞台化にさいし、ロングの原作のみならずロテイの作品も丹念に研究したという。そしてよく知られているように、プッチーニがこの芝居のロンドン公演を見て大いに感激し、即座にオペラ化を決意したのである。こうして世界的に有名な歌劇「蝶々夫人」が誕生した。このピエール・ロテイの「お菊さん」からロング、ベラスコ、プッチーニの「蝶々夫人」にいたる展開について、伊藤整は、「それが、西欧の世界に西欧の男性の目に日本婦人の像を投影させて、善いにつけ悪いにつけ一つのパターンを作ったものである」と指摘する。すなわち西欧における日本女性のイメージ形成を考える場合に、ピエール・ロテイの「お菊さん」は、検討対象として欠かせぬ存在なのである。

 ――付記すると、プッチーニは「お菊さん」をイタリアで作曲していたメサジェと1892年8月の殆どをメサジェと共に過ごし、「マダマ バタフライ」第一幕の親戚一同と結婚式、愛の場面を参照したと思われる。又、マスカーにの「イリス」の台本作家はプッチーニの「マダマ バタフライ」の二人の台本作家の一人、イリカなのである。「カヴアレリア・ルステイカーナ」で有名なピエトロ・マスカーニ(1863−1945)はプッチーニの同時代人、青年時代の友人にしてライヴァルだった。――続く。
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2008年01月01日

国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記―56

謹賀新春、正月元旦!―しつこく、昨年から続き新年第一号から又、オペラ「マダマ バタフライ」原作が「お菊さん」を参照したと思える箇所を追い続ける。1887年に出たフランス海軍士官、ピエール・ロテイ(筆名)の書いた「お菊さん」は明治維新後初めて世界に日本を知らしめた本である。その中から色々とオペラの原作者たちが日本誤認をしたネタになったものを書いてきてその最後に、日本を西欧と同じく一神教の国であるという誤認だけになってしまった。
   第一幕。米国海軍士官ピンカートンと長崎の若い芸者、蝶々さんとの結婚式が蝶々さんの新婚の家で執り行なわれる。それはピンカートンにとっては長崎滞在の間だけの一時結婚。仲人、――と言っても長崎寄港の外国人船乗りに日本女性を斡旋する、女衒の結婚周旋人ごろーがピンカートンから請け負って借家を改築した家に、日本官憲が出張しておこなう同棲許可授受式である。官憲はこういうことを読み上げる。「北米国砲艦リンカーン号乗り組みの海軍中尉ベンジャミン・フランクリン・ピンカートンと、長崎大村地区の少女蝶々は、前者は自己の責任に於いて、そして、後者は親戚一同の立会いにおいて、ここに法の定めるところにより結婚で結ばれることを証する」。かくして蝶々さんはピンカートンと晴れて夫婦になりーーピンカートンにとっては他の長崎寄港船乗りと同じ一時のアヴァンチュールであるがーー立会いの、蝶々さんの親戚一同は盃をあげて「おー かーみ、おーかーみ」と成婚を祝うのである。これは既に書いたことだが、単なる官憲の出張許可式であって、本当の宗教的な結婚式ではない。

 オペラの聴衆である西欧の人々は、ここで親戚たちにより歌われる「かみ」は当然、彼らが考える絶対唯一の神であると思うだろう。一神教徒にとり「かみ」は言わずとしれた一つだけの存在である。従って、オペラを観た向うの観客は日本は自分たちと同じく一神教の国だと思ってしまう。だから僕は「めでたーや、めでたーや」と直した。

神仏混同の日本人の生活をロテイは著書「お菊さん」で書いてはいるが、日本語を解さない人々にとっては、前項までに述べた「イザギ」や「テンショウダイ」という祈りの言葉は意味を成さない音にすぎない。だから欧米のお客様は神仏混同を理解出来ないし、「お、かーみ」、と歌われると、否応なく、日本人は自分たちと同じく一神教国だと無意識に感じてしまうのだ。

「お菊さん」にも、国民の健康を祈り、わが身の幸運を祈り、ご利益をお祈りする初老の婦人, ロテイとお菊さんの同棲する家の家主が祈る場面が出てくるが、彼女が一つの神に祈っているのか、神々という漠然とした信仰対象に祈っているのか、何となくお賽銭を上げてその対価・ご利益を期待しているだけなのかは、ロテイには、そして多分その初老の婦人自身にも解ってはいなかったのではなかろうか?!しかし、「かみ」と言って祈りを捧げたと、「お菊さん」を読んだプッチーニと2人の台本作家も、西欧のオペラの客と同じく、一つの神に祈りを捧げていると思ったに違いは無く、日本は一神教国であるという、いくつかあげてきた中で、最も重大なる日本誤認になってしまったのである。

このブロッグ、今年も何卒つづけてご愛読をお願い申し上げます!――続く。
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