2009年05月28日

読者皆様へのお願い

「誤解――ヨーロッパVS.日本」(エンデイミョ・著。徳岡孝夫・訳。中央公論社、1980年。==この本をお持ちの読者の方にお願いです。小生、図書館に行く時間が無いので、お持ちの方にお譲り、或いは、1ヶ月間拝借できませんでしょうか?ーー出版以来30年経ったこの本は廃版で再販計画はなくーーというより、中央公論社は読売に買収された??ーー皆様に御願いするわけであります。その代償を具体的にメール:
==opera-t-okamura@mvg.biglobe.ne.jp==岡村喬生でお聞かせ頂けると幸いです。
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2009年05月21日

オペラ「マダマ バタフライ」とピエール・ロテイ

ピエール・ロテイのことをグーグルで検索したら、真っ先に僕のブロッグが出てきた。そしていくつか後のブログでは、光栄にもその僕のブログが引用されていた。なので、それを下記して、ロテイの「お菊さん」がプッチーニの「マダマ・バタフライ」に与えた影響をお考え戴きたい。

――筆名ピエール・ロテイは本名をルイ・マリ・ジュリヤン・ヴィヨと言い、1850年1月14日にフランス西部の港町ロシュフォールに生まれた。海軍兵学校を卒業後、60歳で退役するまでの42年間、海軍一筋に勤め上げ、その間、海軍で、近東、アフリカ、極東の港に寄港し、それらの体験をもとに小説、紀行文、随筆などを著した。その繊細で美しい文章、そして詩情あふれるエキゾチックな文学世界は、当時、フランスだけでなく欧米諸国で高い評価を受けた。1891年にエミール・ゾラと争って41歳という異例の若さでアカデミー・フランセーズ会員に選出されたことや、73歳で死去したときに国葬の栄誉を贈られたという事情をみれば、文学者としての高い評価と世界的な名声の一端は明らかであろう。

 ロテイが海軍大尉として初めて長崎を訪れたのは、1885年の夏、35歳のときだった。彼は、この港町でお兼ねさんという18歳の女性と同棲生活をおくり、日々の出来事や折々の所感を、7月8日から8月12日までの36日間、日記として記録した。その日記をもとに、1887年12月から「フィガロ」誌に連載されたのが、小説「お菊さん」である。この作品は、その後カルマン・レヴィ社(1893年)その他から、単行本として公刊された。

冒頭に添えられたリシュリュー公爵夫人宛の献辞によれば、これはある一夏の日記であり、日付も含めて少しの変更も加えられることなく作品化されたものだという。しかしこの言葉は真実ではない。実際には、小説の日付はほぼ二倍に引きのばされ、九月十八日に日本を離れたことになっている。日本滞在中の日記は、「ロチのニッポン日記――お菊さんとの奇妙な生活」(船岡末利翻訳、有隣堂,一九七九年)というタイトルで翻訳も出ている。両者を比較すれば明らかになるとおり、小説には、日記になかったエピソードが新たに挿入されたり、三十五頁におよぶ七月二十四日付けの日記が、いくつかの日付に小分けされたりしている。だがその他の点では、日記におけるお兼さんとの同棲生活の記録や、日本の自然、長崎の庶民の生活、習慣などの描写は、かなり忠実に小説に取り入れられている。

 「お菊さん」の連載が始まったころというのは、十九世紀後半に盛んだった「日本趣味」が多くの芸術領域にいっそう深く浸透し、ジャポニズムのうねりとなって西欧を席巻した時代である。日本の浮世絵は。すでに一八六二年(文久二年)のロンドン万博に出展されて観客を魅了したという。その後、一八六七年(慶応三年)のパリ万博、一八七三年(明治六年)のウイーン万博、一八七八年(明治十一年)のパリ万博と、江戸幕府も明治政府も、日本の美術工芸品を熱心にヨーロッパに売り込んでいた。ちなみに一八六七年のパリ万博では、日本館に水茶屋が出店され、三人の柳橋芸者が接待役を勤めている。これらの芸者について清水勲は「明治の風刺画家・ピゴー」(新潮社、一九七八年)の中で、「彼女たちは名前をかね、みす、さとといい、いずれも大変な美人で客にお茶や味醂酒の接待をした。それが人気を呼んで、この水茶屋の前は連日大にぎわいだった」(二二頁)と紹介している。「カルメン」の作者ブロス・メリメや、日本美術の研究家として名高いエドモン・ド・ゴンクールなども、この日本館と水茶屋を毎日のように訪れたことが知られている。

 当時、世界的大都市であったパリの万博には三千万人から五千万人もの入場者が集まった。万博が日本美術の知名度を高めるのに大いに役立ったことは疑いないだろう。やがて収集家や画家や文学者のあいだで、しだいに日本美術への評価が定着していった。

 音楽の領域でもジャポニズムの影響は明白に現れていた。とくにオペラ、オペレッタの分野で日本趣味の直接的な反映がみられた。鶴園紫磯子も「音楽――近代音楽の誕生とジャポニズム」で指摘するとおり、当時ジャポニズムの時流に乗って日本を扱った作品は、サン=サーンス作曲のオペラ=コミック「黄色い皇女」(1872年、オペラ・コミック座)からプッチーニ作曲の「蝶々夫人」(1904年、ミラノ・スカラ座)に至るまで十数曲に及んだ。1885年にロンドンで上演されたアーサー・サリヴァン作曲「ミカド」や、1898年にローマで初演されたマスカーニ作曲「イリス」などもそこに含まれる。

 このように「不思議の国」日本への関心は高まる一方だった。だが極東は実際に訪問するにはあまりに遠い。そんなときに、明治初年の日本にみずから足を踏み入れ、日本女性と同棲した経験を持つ作家が、本格的な文学作品を発表したのだから、「お菊さん」が大きな反響を呼んだとしても驚くには当たらないだろう。実際この本は、発売後五年間にフランス語だけで二十五版を重ね、多くの言語に翻訳されたのである。「誤解――ヨーロッパVS.日本」(徳岡孝夫訳、中央公論社、1980年)の著者エンデイミョン・ウイルキンソンは、当時の「お菊さん」人気について、「それを支えたのは、十九世紀のビクトリア朝の道徳にがんじがらめになっていたヨーロッパ人が、性において奔放な東洋に対して抱いた無限の憧憬だった。工業化の初期にあった西洋の都市の醜さにひきくらべ、世界旅行がまだ冒険であった時代の東洋の話は、美しい逃避の花園を示唆してもいた。(七三頁)と解説している。これほど評判になった「お菊さん」をオペラ界が放っておくはずはない。1892年にはすでにフランスの作曲家メサジェによってオペラ化され、翌年一月にルネサンス座で初演されて
いる。

 だがそれだけだったら、「お菊さん」は、ジャポニズムの衰退とともに、やがて人びとの記憶から消えていったかもしれない。たしかに明治初期の日本を西洋人の目で観察した数少ない著作として、一定の価値は保たれたであろうが、出版から100年以上のときを経た今日でも、いまだにその名がたびたび話題にのぼるという事態には至らなかったであろう。そうなったのは、なにより「お菊さん」の延長線上にプッチーニのオペラ「蝶々夫人」が位置するからだといえる。ロテイの「お菊さん」はすでに述べたように、欧米諸国で好評を博し、ラフカデイオ・ハーンをはじめ、多くの文学者に影響を与えた。アメリカ人のジョン・ルーサー・ロングも、ロテイを愛読したひとりである。ロングは、1898年(明治三一年)に「お菊さん」を彷彿させる短い小説「蝶々夫人」を発表した。「蝶々夫人」は欧米でベストセラーとなったが、デイヴィッド・ベラスコがこの小説を戯曲化した「蝶々夫人――日本の悲劇」のほうもニューヨークで大成功を収めた。ベラスコは舞台化にさいし、ロングの原作のみならずロテイの作品も丹念に研究したという。そしてよく知られているように、プッチ
ーニがこの芝居のロンドン公演を見て大いに感激し、即座にオペラ化を決意したのである。こうして世界的に有名な歌劇「蝶々夫人」が誕生した。このピエール・ロテイの「お菊さん」からロング、ベラスコ、プッチーニの「蝶々夫人」にいたる展開について、伊藤整は、「それが、西欧の世界に西欧の男性の目に日本婦人の像を投影させて、善いにつけ悪いにつけ一つのパターンを作ったものである」と指摘する。すなわち西欧における日本女性のイメージ形成を考える場合に、ピエール・ロテイの「お菊さん」は、検討対象として欠かせぬ存在なのである。

 ――付記すると、プッチーニは「お菊さん」をイタリアで作曲していたメサジェと1892年8月の殆どをメサジェと共に過ごし、「マダマ バタフライ」第一幕の親戚一同と結婚式、愛の場面を参照したと思われる。又、マスカーにの「イリス」の台本作家はプッチーニの「マダマ バタフライ」の二人の台本作家の一人、イリカなのである。「カヴアレリア・ルステイカーナ」で有名なピエトロ・マスカーニ(1863−1945)はプッチーニの同時代人、青年時代の友人にしてライヴァルだった。――続く。


――筆名ピエール・ロテイは本名をルイ・マリ・ジュリヤン・ヴィヨと言い、1850年1月14日にフランス西部の港町ロシュフォールに生まれた。海軍兵学校を卒業後、60歳で退役するまでの42年間、海軍一筋に勤め上げ、その間、海軍で、近東、アフリカ、極東の港に寄港し、それらの体験をもとに小説、紀行文、随筆などを著した。その繊細で美しい文章、そして詩情あふれるエキゾチックな文学世界は、当時、フランスだけでなく欧米諸国で高い評価を受けた。1891年にエミール・ゾラと争って41歳という異例の若さでアカデミー・フランセーズ会員に選出されたことや、73歳で死去したときに国葬の栄誉を贈られたという事情をみれば、文学者としての高い評価と世界的な名声の一端は明らかであろう。

 ロテイが海軍大尉として初めて長崎を訪れたのは、1885年の夏、35歳のときだった。彼は、この港町でお兼ねさんという18歳の女性と同棲生活をおくり、日々の出来事や折々の所感を、7月8日から8月12日までの36日間、日記として記録した。その日記をもとに、1887年12月から「フィガロ」誌に連載されたのが、小説「お菊さん」である。この作品は、その後カルマン・レヴィ社(1893年)その他から、単行本として公刊された。

冒頭に添えられたリシュリュー公爵夫人宛の献辞によれば、これはある一夏の日記であり、日付も含めて少しの変更も加えられることなく作品化されたものだという。しかしこの言葉は真実ではない。実際には、小説の日付はほぼ二倍に引きのばされ、九月十八日に日本を離れたことになっている。日本滞在中の日記は、「ロチのニッポン日記――お菊さんとの奇妙な生活」(船岡末利翻訳、有隣堂,一九七九年)というタイトルで翻訳も出ている。両者を比較すれば明らかになるとおり、小説には、日記になかったエピソードが新たに挿入されたり、三十五頁におよぶ七月二十四日付けの日記が、いくつかの日付に小分けされたりしている。だがその他の点では、日記におけるお兼さんとの同棲生活の記録や、日本の自然、長崎の庶民の生活、習慣などの描写は、かなり忠実に小説に取り入れられている。

 「お菊さん」の連載が始まったころというのは、十九世紀後半に盛んだった「日本趣味」が多くの芸術領域にいっそう深く浸透し、ジャポニズムのうねりとなって西欧を席巻した時代である。日本の浮世絵は。すでに一八六二年(文久二年)のロンドン万博に出展されて観客を魅了したという。その後、一八六七年(慶応三年)のパリ万博、一八七三年(明治六年)のウイーン万博、一八七八年(明治十一年)のパリ万博と、江戸幕府も明治政府も、日本の美術工芸品を熱心にヨーロッパに売り込んでいた。ちなみに一八六七年のパリ万博では、日本館に水茶屋が出店され、三人の柳橋芸者が接待役を勤めている。これらの芸者について清水勲は「明治の風刺画家・ピゴー」(新潮社、一九七八年)の中で、「彼女たちは名前をかね、みす、さとといい、いずれも大変な美人で客にお茶や味醂酒の接待をした。それが人気を呼んで、この水茶屋の前は連日大にぎわいだった」(二二頁)と紹介している。「カルメン」の作者ブロス・メリメや、日本美術の研究家として名高いエドモン・ド・ゴンクールなども、この日本館と水茶屋を毎日のように訪れたことが知られている。

 当時、世界的大都市であったパリの万博には三千万人から五千万人もの入場者が集まった。万博が日本美術の知名度を高めるのに大いに役立ったことは疑いないだろう。やがて収集家や画家や文学者のあいだで、しだいに日本美術への評価が定着していった。

 音楽の領域でもジャポニズムの影響は明白に現れていた。とくにオペラ、オペレッタの分野で日本趣味の直接的な反映がみられた。鶴園紫磯子も「音楽――近代音楽の誕生とジャポニズム」で指摘するとおり、当時ジャポニズムの時流に乗って日本を扱った作品は、サン=サーンス作曲のオペラ=コミック「黄色い皇女」(1872年、オペラ・コミック座)からプッチーニ作曲の「蝶々夫人」(1904年、ミラノ・スカラ座)に至るまで十数曲に及んだ。1885年にロンドンで上演されたアーサー・サリヴァン作曲「ミカド」や、1898年にローマで初演されたマスカーニ作曲「イリス」などもそこに含まれる。

 このように「不思議の国」日本への関心は高まる一方だった。だが極東は実際に訪問するにはあまりに遠い。そんなときに、明治初年の日本にみずから足を踏み入れ、日本女性と同棲した経験を持つ作家が、本格的な文学作品を発表したのだから、「お菊さん」が大きな反響を呼んだとしても驚くには当たらないだろう。実際この本は、発売後五年間にフランス語だけで二十五版を重ね、多くの言語に翻訳されたのである。「誤解――ヨーロッパVS.日本」(徳岡孝夫訳、中央公論社、1980年)の著者エンデイミョン・ウイルキンソンは、当時の「お菊さん」人気について、「それを支えたのは、十九世紀のビクトリア朝の道徳にがんじがらめになっていたヨーロッパ人が、性において奔放な東洋に対して抱いた無限の憧憬だった。工業化の初期にあった西洋の都市の醜さにひきくらべ、世界旅行がまだ冒険であった時代の東洋の話は、美しい逃避の花園を示唆してもいた。(七三頁)と解説している。これほど評判になった「お菊さん」をオペラ界が放っておくはずはない。1892年にはすでにフランスの作曲家メサジェによってオペラ化され、翌年一月にルネサンス座で初演されて
いる。

 だがそれだけだったら、「お菊さん」は、ジャポニズムの衰退とともに、やがて人びとの記憶から消えていったかもしれない。たしかに明治初期の日本を西洋人の目で観察した数少ない著作として、一定の価値は保たれたであろうが、出版から100年以上のときを経た今日でも、いまだにその名がたびたび話題にのぼるという事態には至らなかったであろう。そうなったのは、なにより「お菊さん」の延長線上にプッチーニのオペラ「蝶々夫人」が位置するからだといえる。ロテイの「お菊さん」はすでに述べたように、欧米諸国で好評を博し、ラフカデイオ・ハーンをはじめ、多くの文学者に影響を与えた。アメリカ人のジョン・ルーサー・ロングも、ロテイを愛読したひとりである。ロングは、1898年(明治三一年)に「お菊さん」を彷彿させる短い小説「蝶々夫人」を発表した。「蝶々夫人」は欧米でベストセラーとなったが、デイヴィッド・ベラスコがこの小説を戯曲化した「蝶々夫人――日本の悲劇」のほうもニューヨークで大成功を収めた。ベラスコは舞台化にさいし、ロングの原作のみならずロテイの作品も丹念に研究したという。そしてよく知られているように、プッチ
ーニがこの芝居のロンドン公演を見て大いに感激し、即座にオペラ化を決意したのである。こうして世界的に有名な歌劇「蝶々夫人」が誕生した。このピエール・ロテイの「お菊さん」からロング、ベラスコ、プッチーニの「蝶々夫人」にいたる展開について、伊藤整は、「それが、西欧の世界に西欧の男性の目に日本婦人の像を投影させて、善いにつけ悪いにつけ一つのパターンを作ったものである」と指摘する。すなわち西欧における日本女性のイメージ形成を考える場合に、ピエール・ロテイの「お菊さん」は、検討対象として欠かせぬ存在なのである。

 ――付記すると、プッチーニは「お菊さん」をイタリアで作曲していたメサジェと1892年8月の殆どをメサジェと共に過ごし、「マダマ バタフライ」第一幕の親戚一同と結婚式、愛の場面を参照したと思われる。又、マスカーにの「イリス」の台本作家はプッチーニの「マダマ バタフライ」の二人の台本作家の一人、イリカなのである。「カヴアレリア・ルステイカーナ」で有名なピエトロ・マスカーニ(1863−1945)はプッチーニの同時代人、青年時代の友人にしてライヴァルだった。――続く。


――筆名ピエール・ロテイは本名をルイ・マリ・ジュリヤン・ヴィヨと言い、1850年1月14日にフランス西部の港町ロシュフォールに生まれた。海軍兵学校を卒業後、60歳で退役するまでの42年間、海軍一筋に勤め上げ、その間、海軍で、近東、アフリカ、極東の港に寄港し、それらの体験をもとに小説、紀行文、随筆などを著した。その繊細で美しい文章、そして詩情あふれるエキゾチックな文学世界は、当時、フランスだけでなく欧米諸国で高い評価を受けた。1891年にエミール・ゾラと争って41歳という異例の若さでアカデミー・フランセーズ会員に選出されたことや、73歳で死去したときに国葬の栄誉を贈られたという事情をみれば、文学者としての高い評価と世界的な名声の一端は明らかであろう。

 ロテイが海軍大尉として初めて長崎を訪れたのは、1885年の夏、35歳のときだった。彼は、この港町でお兼ねさんという18歳の女性と同棲生活をおくり、日々の出来事や折々の所感を、7月8日から8月12日までの36日間、日記として記録した。その日記をもとに、1887年12月から「フィガロ」誌に連載されたのが、小説「お菊さん」である。この作品は、その後カルマン・レヴィ社(1893年)その他から、単行本として公刊された。

冒頭に添えられたリシュリュー公爵夫人宛の献辞によれば、これはある一夏の日記であり、日付も含めて少しの変更も加えられることなく作品化されたものだという。しかしこの言葉は真実ではない。実際には、小説の日付はほぼ二倍に引きのばされ、九月十八日に日本を離れたことになっている。日本滞在中の日記は、「ロチのニッポン日記――お菊さんとの奇妙な生活」(船岡末利翻訳、有隣堂,一九七九年)というタイトルで翻訳も出ている。両者を比較すれば明らかになるとおり、小説には、日記になかったエピソードが新たに挿入されたり、三十五頁におよぶ七月二十四日付けの日記が、いくつかの日付に小分けされたりしている。だがその他の点では、日記におけるお兼さんとの同棲生活の記録や、日本の自然、長崎の庶民の生活、習慣などの描写は、かなり忠実に小説に取り入れられている。

 「お菊さん」の連載が始まったころというのは、十九世紀後半に盛んだった「日本趣味」が多くの芸術領域にいっそう深く浸透し、ジャポニズムのうねりとなって西欧を席巻した時代である。日本の浮世絵は。すでに一八六二年(文久二年)のロンドン万博に出展されて観客を魅了したという。その後、一八六七年(慶応三年)のパリ万博、一八七三年(明治六年)のウイーン万博、一八七八年(明治十一年)のパリ万博と、江戸幕府も明治政府も、日本の美術工芸品を熱心にヨーロッパに売り込んでいた。ちなみに一八六七年のパリ万博では、日本館に水茶屋が出店され、三人の柳橋芸者が接待役を勤めている。これらの芸者について清水勲は「明治の風刺画家・ピゴー」(新潮社、一九七八年)の中で、「彼女たちは名前をかね、みす、さとといい、いずれも大変な美人で客にお茶や味醂酒の接待をした。それが人気を呼んで、この水茶屋の前は連日大にぎわいだった」(二二頁)と紹介している。「カルメン」の作者ブロス・メリメや、日本美術の研究家として名高いエドモン・ド・ゴンクールなども、この日本館と水茶屋を毎日のように訪れたことが知られている。

 当時、世界的大都市であったパリの万博には三千万人から五千万人もの入場者が集まった。万博が日本美術の知名度を高めるのに大いに役立ったことは疑いないだろう。やがて収集家や画家や文学者のあいだで、しだいに日本美術への評価が定着していった。

 音楽の領域でもジャポニズムの影響は明白に現れていた。とくにオペラ、オペレッタの分野で日本趣味の直接的な反映がみられた。鶴園紫磯子も「音楽――近代音楽の誕生とジャポニズム」で指摘するとおり、当時ジャポニズムの時流に乗って日本を扱った作品は、サン=サーンス作曲のオペラ=コミック「黄色い皇女」(1872年、オペラ・コミック座)からプッチーニ作曲の「蝶々夫人」(1904年、ミラノ・スカラ座)に至るまで十数曲に及んだ。1885年にロンドンで上演されたアーサー・サリヴァン作曲「ミカド」や、1898年にローマで初演されたマスカーニ作曲「イリス」などもそこに含まれる。

 このように「不思議の国」日本への関心は高まる一方だった。だが極東は実際に訪問するにはあまりに遠い。そんなときに、明治初年の日本にみずから足を踏み入れ、日本女性と同棲した経験を持つ作家が、本格的な文学作品を発表したのだから、「お菊さん」が大きな反響を呼んだとしても驚くには当たらないだろう。実際この本は、発売後五年間にフランス語だけで二十五版を重ね、多くの言語に翻訳されたのである。「誤解――ヨーロッパVS.日本」(徳岡孝夫訳、中央公論社、1980年)の著者エンデイミョン・ウイルキンソンは、当時の「お菊さん」人気について、「それを支えたのは、十九世紀のビクトリア朝の道徳にがんじがらめになっていたヨーロッパ人が、性において奔放な東洋に対して抱いた無限の憧憬だった。工業化の初期にあった西洋の都市の醜さにひきくらべ、世界旅行がまだ冒険であった時代の東洋の話は、美しい逃避の花園を示唆してもいた。(七三頁)と解説している。これほど評判になった「お菊さん」をオペラ界が放っておくはずはない。1892年にはすでにフランスの作曲家メサジェによってオペラ化され、翌年一月にルネサンス座で初演されて
いる。

 だがそれだけだったら、「お菊さん」は、ジャポニズムの衰退とともに、やがて人びとの記憶から消えていったかもしれない。たしかに明治初期の日本を西洋人の目で観察した数少ない著作として、一定の価値は保たれたであろうが、出版から100年以上のときを経た今日でも、いまだにその名がたびたび話題にのぼるという事態には至らなかったであろう。そうなったのは、なにより「お菊さん」の延長線上にプッチーニのオペラ「蝶々夫人」が位置するからだといえる。ロテイの「お菊さん」はすでに述べたように、欧米諸国で好評を博し、ラフカデイオ・ハーンをはじめ、多くの文学者に影響を与えた。アメリカ人のジョン・ルーサー・ロングも、ロテイを愛読したひとりである。ロングは、1898年(明治三一年)に「お菊さん」を彷彿させる短い小説「蝶々夫人」を発表した。「蝶々夫人」は欧米でベストセラーとなったが、デイヴィッド・ベラスコがこの小説を戯曲化した「蝶々夫人――日本の悲劇」のほうもニューヨークで大成功を収めた。ベラスコは舞台化にさいし、ロングの原作のみならずロテイの作品も丹念に研究したという。そしてよく知られているように、プッチ
ーニがこの芝居のロンドン公演を見て大いに感激し、即座にオペラ化を決意したのである。こうして世界的に有名な歌劇「蝶々夫人」が誕生した。このピエール・ロテイの「お菊さん」からロング、ベラスコ、プッチーニの「蝶々夫人」にいたる展開について、伊藤整は、「それが、西欧の世界に西欧の男性の目に日本婦人の像を投影させて、善いにつけ悪いにつけ一つのパターンを作ったものである」と指摘する。すなわち西欧における日本女性のイメージ形成を考える場合に、ピエール・ロテイの「お菊さん」は、検討対象として欠かせぬ存在なのである。

 ――付記すると、プッチーニは「お菊さん」をイタリアで作曲していたメサジェと1892年8月の殆どをメサジェと共に過ごし、「マダマ バタフライ」第一幕の親戚一同と結婚式、愛の場面を参照したと思われる。又、マスカーにの「イリス」の台本作家はプッチーニの「マダマ バタフライ」の二人の台本作家の一人、イリカなのである。「カヴアレリア・ルステイカーナ」で有名なピエトロ・マスカーニ(1863−1945)はプッチーニの同時代人、青年時代の友人にしてライヴァルだった。
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2009年05月12日

初の日本見聞録、ロテイの「お菊さん」

黒船来航で世界に初めて門戸を開いた我が国を実際に訪れ、長崎に1ヶ月以上も滞在し、現地の日本人妻と日本官憲同意の下に丘の上の借家で同棲生活を送ったフランス海軍士官にして、アカデミーフランセーズ会員の作家ピエール・ロテイ。彼は「お菊さん」という自分の実体験を綴った本をフィガロ誌に掲載し、当事の欧米社会に初めて日本を知らしめた。飛行機のない当事。極東の日本の地を踏むためには船で、遙々数ヶ月の過酷な航海の後でなければならなかった。従って「お菊さん」は初めての本格的な紀行記として欧米では広く読まれたようである。オペラ「マダマ バタフライ」の原作、アメリカ人弁護士・作家ロングの「蝶々夫人」、それを劇作家ベラスコが戯曲にした同名の台本、そしてプッチーニとその二人の台本作家イッリカとジャコーザというオペラの原作者達は皆、ロテイの「お菊さん」を参照したようである。この本を読まずしては神仏混同など「マダマ バタフライ」の日本誤認は語れない。ーー続く。
posted by opera-okamura at 20:43| Comment(0) | 日記

2009年05月04日

日本は一神教の国!?

前回のこのブロッグの終わりのほうが文字化けしてしまったので、それを再現しよう。−−−今秋10月31日ー東京イタリア文化会館、11月1日ー長崎(予定)の「正しいマダマ バタフライ」シンポジウムの内容だ。このオペラの中の日本誤認歌詩で、一番に直さなくてはならないのが、蝶々さんと米海軍士官ピンカートンの結婚式が終わって、蝶々さんの親戚縁者友人たちがこぞって、「おー、かーみ、おー、かーみ」と祝杯を挙げる部分なのである。神という言葉が西欧のGod,Gott,Dio,Dieu,(いずれも英独伊仏・語の神)と言う意味だと、西欧の人々が理解すると、彼らの神ーー一神教の神ーーーを意味すると捉えられてしまい、日本も一神教の国だと誤解される惧れがあるからだ。ーーいや、見直したら、文字化けは神仏混交の話の部分だった!。次回は本当に、前回の神仏混交の日本のことを世界に最初に広めた、ロテイの「お菊さん」などのことを書こう。
posted by opera-okamura at 17:55| Comment(0) | 日記