2011年09月30日

ピンカートンの性格の変遷

アメリカ海軍士官ピンカートン、対、日本の15歳の半玉芸者蝶々さん。世界の大国にのし上がったアメリカの海軍士官の日本人に対する傍若無人な態度、対、蝶々さんの無邪気な少女らしいうぶな態度。この対比が上手くできると、オペラ「マダマ バタフライ」第一幕の目的は、日本という、鎖国を解いて世界に出たばかりの珍しい国と人々の描写を除けば、達せられたことになる。1904年2月のスカラ座での初演の楽譜の印刷された版はないが、初演ではピンカートンは馬桶に入った日本の酒を持ってこいだの、日本のシロップ漬の蜘蛛の巣、だのに言及し、下男たちを畜生づらと呼び、などの、自分の許嫁・蝶々さんの国やその風習を馬鹿にする言葉を吐く。これらが初演の後、僅か3ヶ月後にブレーシャでおこなわれた再演ではなくなっていた。つまり、ピンカートンは少しは良い人間となった。この作業が、その後続いたロンドン、パリでの再演では続き、ピンカートンの性格は良くなり、小国の女性の鑑のような蝶々さん、対、大国の男性の愚かなピンカートン、の原作者たちが考えた図式は消えた行ったのである。
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2011年09月19日

シモネッタ・プッチーニ

 第一幕が終わった。−−オペラ「マダマ バタフライ」の主人公、蝶々さんの実の叔父、仏教の僧侶ぼんぞーは、昨夜、一人密かにキリスト教に回収した姪・蝶々を、蝶々さーんと、さん付けで怒鳴り、「かみさるんだし−こ」と訳の解らない日本語らしき言葉で面罵し、日本人社会から離別して、立ち去っていく。そして続くは、有名なピンカートンと蝶々さんの20分あまりも陶酔の旋律を歌いあう愛の二重唱。その中には蝶々さんの侍女すずきの夕べの祈りが出てくるのだが、これも仏前に「いざーぎ、いざなみ、さるんだしーこかみ」と、神道の神の名を連ねる日本誤認を侵している。ーー激しい拍手。カーテンコール。そして客席に照明が入ってきてすぐ、僕と同じく最前列、それもど真ん中の席に座っていたプッチーニの孫娘、シモネッタさんが僕の方にやってきた。「ナカムラさん、貴方にご紹介したい人が居ます」。彼女は僕のことを”中村さん”と間違えるのが常である。
 彼女の指差すほうに、白髪の男が居た。しばし無言で僕を彼は見守る。「ピエーロ!」僕は叫んだ。演出家のピエーロ・ファジョーニ。髪こそ白くなったが、昔と変わらない刺すような視線。「タカーオ!」、昔と変わらない呼び名で僕に抱きついてくる。−−1969年のアレーナ デイ ヴェローナではヴェルデイの「ドン カルロ」が目玉の出し物だった。モンセラ・カヴァレー、カプチッリ、コソット、タイトルロールはドミンゴ(イタリアデビュー)という錚々たる歌手の中に、僕も入っていた。そのときの演出助手がピエーロ・ファジョーニだった。そしてその数年後、東京でのグノーの「ファウスト」公演に僕は彼を呼ぶように助言をした。僕は悪魔メフィストフェレスだった。ーーピエーロは以後何度か日本で演出をしてご存知の方もあるだろうが、天才的な演出家である。鋭い色彩感覚を持ち、即興的な決断は素早い。だが、そういう人間にありがちな、自己規制にいささか欠ける。遅れてきたり、すっぽかしたり、喧嘩早く、−−。これがなければ、世界ナンバーワンの演出家だとも言えるのだがーー。「歌はやめたのか?」「まだ歌ってる。日本最高齢の歌手だ!」「君
が演出までやるとは思わなかったぜ!」「誉めろよ」「いやー、良かったぜ、少なくとも一幕は}ーーこの二人の昔仲間のやりとりをシモネッタおばあちゃんは無言で微笑みながら見ていた。
 プッチーニの著作権の正当なる唯一の継承者。僕の日本語認歌詞改定を彼女が阻んだ。だが、彼女がピエーロを僕に逢わせ、彼のおせいじに一言も口を挟まなかったのは、ひょっとすると、個人的に彼女は、僕のバタフライの演出に好意を持っているのかもしれない。後から聞いたのだが、僕がプッチーニ賞を貰った決定に彼女は賛成したのだそうである。
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2011年09月11日

蝶々さーん

 「これをシモネッタさんに差し上げて!」モレッテイ夫人が僕に花束を渡す。????プッチーニフェスチヴァル財団・モレッテイ総監督夫妻、同財団評議員ドナーテイ・イタリア文化会館東京館長、二宮咲子/蝶々さん、末広貴美子/すずき、高橋淳/ごろー、衣裳/千地泰宏、美術/川口直次、そして演出の小生、は定刻ピッタリにプッチーニ記念館のベルを押した。テレビカメラは館外に留まる。取材禁止である。巨匠プッチーニの孫娘、シモネッタ・プッチーニさんは事務員に命じて、狭い庭に人数分の椅子を並べさせた。
 ーー記念館にはプッチーニの墓があり、通常の民間の館だが巨匠のピアノ、楽譜、写真、狩猟の武器、などが所狭しと展示されている。シモネッタおばあちゃんもそこに住んでいる。そこはプッチーニがこよなく愛した湖畔の別荘。ここでボエーム、トスカ、バタフライ等の傑作が殆ど創作された。歩いて5分ほどの所に3200席の湖畔野外劇場が聳えている。毎夏、プッチーニのオペラがここで上演される。今年は第57回のプッチーニフェステイヴァルで、ボエーム、トーランドーが昨シーズンに引き継いで公演され、僕が監督する「マダマ バタフライ」が新作。日本から28名のキャスト・スタッフを連れて、ここイタリアはトスカーナ、斜塔のピサの近くのトッレ・デル・ラーゴに、日本誤認の原作台本の歌詞を訂正し、輸入ばかり繰り返している日本オペラを、長崎を舞台とした「マダマ バタフライ」で作曲家の中心地に輸出しようとしている。
 「お時間を戴き恐縮です」僕は丁寧にイタリア語で喋り、おばあちゃんに花束を手渡した。「お待ちしておりました、さ、どうぞ」彼女は少し腰が曲がってはいるが、まだ矍鑠とした物腰で我々皆を迎え入れた。「蝶々さんの芸者商売誤認の第二幕の現行版のアリアの替わりに、ブレーシャ版の、誤認のない同じアリアを使うことに賛同していただき有難うございます」。モレッテイ監督が切り出した。おばあちゃんは優しく頷いた。世界中で歌われている現行版では、芸者は雨の日も風の日も路傍に出て、踊り歌って、道行く人に喜捨を乞う商売、となっている。ブレーシャ版はプッチーニと、イッリカ、ジャコーザの二人の台本作家という同じ原作者による版である。「そして蝶々さんの出身地が、大村を間違ってオマーラとなっているのも」モレッテイは続ける。おばあちゃんは頷く。「では、????ぼんぞーの、蝶々ーよ、もよろしいですか?」おばあちゃんの態度が変わった。「どうして上演の5日前になって言うの!」
 ぼんぞー、は仏教の僧侶で蝶々さんの実の叔父である。彼は、蝶々さんが米国海軍士官ピンカートンと結婚する前夜に、一人で密かにキリスト教に改宗した。ピンカートンに喜ばれようという儚い日本の女心である。それをぼんぞーは垣間見てしまったので、まだ結婚式の匂いが消えぬときに怒鳴り込んできた。その時に「蝶々さーん!」と怒鳴るのだ。実は全部で11か所ある日本誤認歌詞の中で、2箇所を出しご機嫌を損ね、両方共にダメになることを恐れたモレッテイの意見を入れて、「蝶々よー」だけを出すことにしていたのである。
 「今この時点でのお返事は控えましょう。これからはもっと早く出してください!時間は十分にあったはずです」。著作権継承者の厳然とした命令である。3人の原作者たちのなかで最も長生きだったのはプッチーニで、1924年にブラッセルで喉頭癌で世を去った。だから70年経った1994年に著作権保護期間は終了しているが、権利を持っている人のOKを得なければ改訂は出来ない。強行すれば法廷に出なければならないことになる。「ダンテの神曲の改訂をしてはならないのと同じです!」おばあちゃんは続けた。頑固なその態度に僕は、不思議なことに、共感を覚えた。俺だって彼女の立場になれば、同じことを言っただろうな!ーーそれでなければあらゆる芸術作品は更改される危険にさらされる!! ????約一時間。僕らは学生のようにシモネッタ先生の前で正座しつくした。
 そして翌夜。「マダマ バタフライ」のAssieme稽古????総練習/GPの前の衣裳をつけない通し稽古ーーの最中で、モレッテイからの電話を僕の助手が耳打ちした。「蝶々さーん、として欲しい、変更はダメだとのシモネッタおばあちゃんからのお伝えだそうです!}。そして間髪をいれずにぼんぞーが登場。彼は既にそれを知っていたらしく「蝶々さーん」と居丈高に怒鳴った。ぼんぞー役は、最初は中国人が練習にでていたが降ろされ韓国人が替わってなっていた。心なしかその声は、日本人の僕に対して勝ちほこっているように聞こえた。
posted by opera-okamura at 14:15| Comment(0) | 日記